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羽柴秀吉が賤ヶ岳の戦いに勝利したカギは、「美濃大返し」にあったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
賤ケ岳から見下ろす水田が広がる長浜の風景。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」では、賤ヶ岳の戦いがほぼスルーだった。戦いでカギとなったのは「美濃大返し」にあったといわれているが、それが事実なのか考えてみよう。

 天正11年(1583)、羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家が決裂し、覇権を争った。この戦いこそが有名な賤ヶ岳(滋賀県長浜市)の戦いで、美濃大返しとはその最中の秀吉の作戦である。

 両軍の軍勢は、秀吉軍6万、勝家軍4万だったといわれている。ともに長期戦の構えで、約1ヵ月近く膠着状態が続いた。しかし、同年4月20日、秀吉が美濃に侵攻すると、賤ヶ岳付近の秀吉軍が手薄になった。これを知った佐久間盛政が勝家に進言し、軍勢8千を率いて中央を突破する攻撃に出た。

 このとき、秀吉は大垣(岐阜県大垣市)で昼食を摂っていたが、盛政が賤ヶ岳に出撃したとの報告を受けると、即座に勝利を確信したという。報告を受けた秀吉は、北国脇往還沿いの村々に先遣隊を派遣すると、行軍を円滑に進めるため松明と握り飯の準備を命令したのである。

 4月20日の14時頃、秀吉は約1万5千の軍勢を率いて大垣を出発すると、木之本(滋賀県長浜市)までの約52キロメートルの距離をわずか5時間で移動したという。路次は平地ばかりでなく、丘陵地帯も含まれていたので、驚異的なスピードである。

 結果、秀吉は賤ヶ岳の戦いで勝利し、最終的には越前北庄(福井市)で柴田勝家を討伐することに成功した。問題になるのは、わずか5時間で52キロメートルも移動することが可能なのかということである。しかも舗装された道ではなく、アップダウンもそれなりにあった険しい道である。

 現在のフルマラソン(42.195キロメートル)の世界記録(男子)は、2時間1分9秒である(2022年9月25日)。しかし、この記録はコンディションを整えた、一流選手の記録で参考にならない。

 結論を端的に言えば、約1万5千の軍勢が塊のようになって、一気に移動したとは常識的に考えられない。秀吉を中心とした部隊が馬で先に現地に到着し、後続の部隊がぞろぞろとあとから到着したと考えるべきだろう。同時に、「5時間で52キロメートル」という記述は、そもそも信憑性が薄いように思う。

主要参考文献

渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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