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【戦国こぼれ話】関ヶ原合戦迫る!「五大老が上で五奉行が下」という考えは完全な間違いである

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
五大老のひとり毛利輝元。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 新政権が発足したが、陰の実力者の存在が指摘され、どっちが上かということはよくある。豊臣政権下における五大老と五奉行も同じことで、これまでは「五大老が上、五奉行が下」とされてきたが、それは正しいのだろうか。

■五大老と五奉行という呼称

 五大老と五奉行という呼称は、江戸時代以降に使われた一般的な名称で、江戸幕府の大老をイメージして、江戸時代に作られた用語ではないかと推測されている。

 当時、五大老は「奉行」、五奉行は「年寄」と呼ばれていたと指摘したのが阿部勝則氏である(「豊臣五大老・五奉行についての一考察」『史苑』49-2)。

 この説は研究者の間でも広く支持されたが、混乱を避けるため一般的には従来のままの呼称で呼ばれてきた。

 堀越祐一氏は阿部氏の研究を批判し、五奉行を「年寄」とする史料が存在する一方、あるときは「奉行」とする史料も数多く確認できると指摘した(『豊臣政権の権力構造』吉川弘文館)。

 「年寄」は「宿老」とも称されるもので、大名家の重臣に相当した。一方、「奉行」はそれよりも一段低く、上位者の命令を執行する立場にあり、「年寄」のほうが「奉行」よりも一段高い存在だったといえる。

 では、どのようなシチュエーションで、彼らは「年寄」あるいは「奉行」と呼ばれたのだろうか。

■「奉行」と「年寄」

 実は、石田三成ら五奉行の面々は、五大老のことを「奉行」と呼んでいた。しかも彼ら五奉行は、自分たちを指して「年寄」と呼び、逆に自分たちのことを決して「奉行」とは呼んでいなかった。

 一方、家康に与する面々は、五奉行のことを「奉行」と呼んでいたが、五大老を「奉行」と呼ぶことはなく、ましてや五奉行を「年寄」とは呼ばなかった。これは、いったいどういうことなのか。

 三成らは家康らを「奉行」と呼ぶことにより、相対的に自分たちの方が身分が高い「年寄」であることを自任した。

 家康ごときは秀頼に仕える奉行に過ぎず、自分たちこそが豊臣家の重臣たる「年寄」であることを強調したかったのだろう。

 逆に言えば、家康らは自分たちが「奉行」であるとは思っておらず、ましてや三成らが「年寄」であるとは認めていなかっただろう。

 要するに、「年寄」あるいは「奉行」という呼称は、それぞれの政治的な立場を自任して用いられたと指摘されている。

■五大老と五奉行とどっちが上か

 このように見ると、五大老と五奉行という名称に惑わされてきたが、どちらが格上、あるいは格下という考え方では捉えられないようである。

 それぞれの職掌は、五大老が幼い秀頼を補佐し、大名の領地の給与を行い、五奉行が豊臣家の直轄領を主に管理していたが、それはあくまで役割分担に過ぎないと言いうるかもしれない。

 実際の政治の現場では、五奉行が結束すれば、家康に対抗しうる力を持っていた。それは、ときに五大老の重鎮である前田利家を動かし、毛利輝元を味方に引き入れるだけの潜在能力を秘めていたのである。

 五大老も五奉行も豊臣政権を支えるうえで、それぞれに役割分担はあったものの、ほぼ同格の立場にあったとみなしてよいだろう。

 したがって、五大老と五奉行の関係は、単に名称にこだわって上下を論じるのではなく、実際の政治情勢から力学を読み取っていくべきと考える。

■まとめ

 これまで、五大老が政権の中枢に位置し、五奉行はその下で実務を担っていたと考えられてきた。しかし、それは単なるイメージにすぎず、そうでないことが明らかにされている。

 その結果、従来の五大老と五奉行の見解が変わるだけでなく、関ヶ原合戦そのものの解釈も変わる可能性がある。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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