豊臣秀吉が足利義昭の養子になろうとして、断わられた話は史実なのか
大河ドラマ「どうする家康」では、ムロツヨシさんが演じる豊臣秀吉と古田新太さんが演じる足利義昭の演技が異彩を放っていた。
ところで、一説によると、秀吉は義昭の養子になろうとしたが、断わられたという。その話が史実なのか、考えることにしよう。
豊臣秀吉は農民の子といわれており、その出自は決して良いとはいえなかった。天正13年(1585)7月、秀吉は関白の座に就いたが、これにはカラクリがあった。
当時、関白の地位を許されたのは、五摂家(一条、二条、九条、近衛、鷹司)に限られていた。そこで、秀吉はいったん近衛前久の猶子(相続を前提としない養子)となり、晴れて関白になったのである。
秀吉には、出自に関するコンプレックスがあった。自分があたかも天皇家のご落胤であることを喧伝したり、日輪の子と称してアジアの諸国に服属を命じたりしたのは好例だろう。
秀吉がなぜ征夷大将軍にならず、関白を選んだのかについては、多くの議論があり、明確な答えが導き出されたわけではない。
ところが、秀吉が足利義昭の養子となって、征夷大将軍になろうとしたことが、『義昭興廃記』に次のとおり記されている
天正13年(1585)、秀吉は足利義昭の養子となって、征夷大将軍の職に就こうと望みましたが、義昭の許しを得られませんでした。
それどころか義昭は、卑賤の者を子とすることは、後代の嘲りとなるので叶えることができないといいました。秀吉は激しく立腹し、結局、関白の職に就いたのです。
秀吉が義昭の養子を希望したのは、征夷大将軍になるためであった。養子になれば、その家の跡を継げるのだから、もっとも手っ取り早い方法だった。義昭は天正16年(1588)に出家して昌山と号し、朝廷から准后に遇せられていた。
『義昭興廃記』によると、義昭は秀吉の出自が賤しいということで、その願いを一蹴したのである。やむなく秀吉は征夷大将軍の夢を諦め、関白に就任したのである。
同様の話は、『後鑑』や林羅山(江戸時代初期の儒学者)の『豊臣秀吉譜』にも載せられている。秀吉が義昭の養子になろうとして拒否されたことは、長く事実であると信じられた節がある。
現在では関係する一次史料を欠いていることから、虚構であると指摘されている。こうした説が流布したのも、秀吉の身分が低いというコンプレックスが大いに反映されているように思えてならない。