自民党「総裁」名の由来、選挙が必要な訳、任期と再選規定の変遷
自民党総裁選挙が9月7日告示、20日投開票と決まりました。首相には任期がないのに何で党トップを決める選挙をするのでしょうか。また今回から「3選までOK」と改まって安倍晋三総裁の出馬が確実視されています。過去の規定はどうであったかも改めて振り返ってみました。
「総裁」は幕末ファンならばご存じの「あの出来事」から
そもそも自民党のトップは何で「総裁」と呼ぶのでしょうか。役職として出てくるのは江戸時代の「文久の改革」(1862年)で前福井藩主の松平慶永が勅旨で任じられた「政事総裁職」です。次に有名なのはポスト徳川体制を模索するなか岩倉具視らが発した「王政復古の大号令」での記載。幕府(武家)や摂政・関白(公家)など既存の役職を廃して、総裁・議定・参与の「三職」を置くという新体制です。総裁には有栖川宮熾仁親王が就きました。ただこの後のめまぐるしい体制変更で政府の役職としての「総裁」は消滅します。
政党のトップが総裁を冠したのは伊藤博文。1900年に自ら創設した立憲政友会の初代総裁に就任します。同党に先立って誕生した1881年の自由党トップの板垣退助と82年の立憲改進党トップの大隈重信が名乗ったのは「総理」。この呼称は他ならぬ伊藤が制度設計した内閣制度のトップに用い、自ら初代首相に就任したので使用はまぎらわしく、かつ前述の歴史を重んじた結果「総裁」を選んだのではないでしょうか。
以後、戦前の政党政治を担った政友会と憲政会→立憲民政党の潮流はいずれも総裁を使いました。戦後誕生した日本自由党(鳩山一郎総裁)と日本進歩党(町田忠治総裁)も踏襲。この2党が源流となって生まれたのが自由民主党なので総裁という名は当然のごとく受け継がれたようです。
任期のない「総理」と総裁の関係
日本国憲法が規定する内閣総理大臣(首相)に任期はありません。本人が辞めると言わない限り続けられます。69条の規定で衆議院で内閣不信任決議がなされた場合でも総辞職ではなく解散を選択できるのです。
厳密に申せば首相任期中の衆議院議員総選挙または参議院議員通常選挙で落選して国会議員の資格を失うか(ただし参院出身の首相はいまだゼロ)、除名されたら首相の条件を失います。また衆議院の任期は4年なので満了したら総選挙が必須で、選挙結果にかかわらず内閣はいったん総辞職するので国会で首相指名選挙が必ず行われます。衆参の指名が異なると衆議院の議決が優先されるので、その意味で首相任期は4年といえなくもありません。もっとも任期満了選挙は過去1度しかなく、他のすべては首相が任期途中で解散しています。
総選挙(解散または任期満了)で与党(首相の味方)が大勝すれば直後の指名選挙で再任されるのが通例です。言い換えると野党(首相の味方以外)が数で上回り、かつ団結して1人の候補を推せば現職が続投意欲を示し、与党が支持しても指名選挙で敗れて政権が交代します。敗軍の将の続投を許すとは思えませんが、可能性はあるのです。
1955年に結成した自民党は過去2回、政権交代を許しています。1度目は93年の非自民勢力結集に基づく細川護煕内閣の成立。自民の宮澤喜一首相は既に党総裁まで辞めていて河野洋平新総裁で指名選挙に臨むも敗北しました。2度目は2009年の民主党圧勝。麻生太郎首相は退陣を表明するも次の総裁を選ぶ前に指名選挙の日がやってきたので自民は若林正俊参議院議員に投票するという苦肉の策を取ったのです。
かろうじて過半数といった状況で現職が続投意欲を示して反発する自民党内の多くから造反されるという事態も一度出現しています。大平正芳首相で臨んだ1979年総選挙で自民は過半数割れの惨敗を喫するも無所属議員を取り込んで何とか過半数に達しました。党内は大平支持と不支持で真っ二つ。不支持派の頭目であった福田赳夫前首相が党総裁でないにもかかわらず同じ自民から指名選挙で勝負を挑むという異例の事態に陥りました。大平の辛勝で決着をみたのですが僅差。
この時もし野党第1党の日本社会党が第2党以下の公明党、日本共産党、民社党の1つでもいいから取り込めたら首相の座が転がり込んできた計算となり大魚を逸したのです。
自民という「派閥連立」党が生まれた理由
2度の野党転落を味わうも結党以来、他は単独与党か圧倒的な与党第1党として君臨してきた自民党にとって総裁の座イコール首相を意味します。他党に首相の座を譲ったのは1994年6月から翌95年8月までの村山富市(日本社会党出身)内閣のみ。自民は河野洋平総裁でした。非自民政権から奪還する苦肉の策だったのです。
前述の通り首相に任期はありません。ところが自民党総裁にはあるのです。その理由は自民党という政党そのものがさまざまな保守勢力の連合体だから。荒っぽくいえば自民党という名の連立政権なのです。ゆえに1つの勢力=派閥が長らく権勢をほしいままにしないよう過去2年または3年という任期を設けて「党内の政権交代」がはかれるようにしてきました。
根源は終戦直後にさかのぼります。日本自由党(後に民主自由党→自由党と改称)を創設した鳩山一郎総裁が46年、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から公職追放され任を全うできなくなり吉田茂に後を託しました。その吉田は首相として在任2616日という長期政権を築きます。鳩山は51年に追放解除となってから一転して吉田のライバルとして日本民主党を結成して退陣に追い込み、54年に首相の座に就きます。この自由党と日本民主党が合同して55年にできたのが自民党です。
したがって党内にはいくつもの思惑を秘めた集団が並立していました。旧自由党は吉田を抑えて合同を推進した緒方竹虎派、吉田の薫陶を受けた池田勇人派と佐藤栄作派(ただし佐藤の入党は鳩山退陣後)、吉田派にも緒方派にも属さない大野伴睦派が存在しました。今に置き換えると池田派が麻生太郎派と岸田文雄派および谷垣禎一グループ、佐藤派が竹下亘派と石破茂派(やや強引)です。
日本民主党は総裁の鳩山派を受け継ぐ河野一郎派と岸信介派(濃淡あり)、鳩山分派の石橋湛山派、独自路線の色彩が濃い三木武夫+松村謙三派など。今に置き換えると岸派が細田博之派、河野派の流れが石原伸晃派、岸派と河野派の一部に佐藤派の一部を加えたのが二階俊博派となります。三木・松村派の流れは2017年に麻生派へ合流し消滅してしまいました。
任期は「2年」か「3年」で再選規定も「なし」「2選まで」「3選まで」と変遷
総裁任期は当初「2年・再選規定なし」でした。したがって佐藤栄作4選というケースもあります。72年から「3年・再選規定なし」に変更。この頃から田中角栄と福田赳夫の「角福戦争」が顕在化して規定にも影響を及ぼします。田中は佐藤派の多数をまとめて田中派を結成し、福田は岸派を継承。この時は田中が勝利し、長期政権が期待されました。
ところが田中が「政治とカネ」の問題で74年、任期を残して退陣に追い込まれます。それでも田中の政治への意欲は衰えず、吉田茂を同じく源流とする大平正芳(池田から派を受け継いだ前尾繁三郎を追い払って大平派結成)とタッグを組み「代理角福戦争」へ発展。党分裂を不安視して当時の椎名悦三郎党副総裁が「角」とも「福」とも距離を置く三木を総裁とする裁定で収めます。この時から再選規定が「2選まで」と改まりました。
その三木も76年総選挙で敗北して退陣。再び福田か大平かという角逐が表面化し大平(田中派支援)へ次の総裁を譲るという密約を福田との間で交わした話し合いで福田総裁が実現しました。ここで「任期2年」に短縮。福田からすれば「任期を短縮するし次は君だから総裁にさせてくれ」と大平へ頼んだといった図式です。
ところが2年後(78年)の総裁選で福田(現職首相)が密約をほごにして出馬したため大平とついに激突。福田を追い落としました。現職首相が総裁選で敗北した唯一の例です。
以後「任期2年・2選まで」ルールがしばらく続きました。2001年4月の総裁選で最有力視されていた橋本龍太郎(田中派を割った竹下登派を継いだ小渕恵三元首相死去により派を継承)をまさかの勝利で破った小泉純一郎総裁が首相として絶大な人気を誇っていた03年から2年では短いと「任期3年・2選まで」へと改正されました。
そして現在の安倍総裁です。12年総裁選でその座に就き直後の総選挙で民主党を追い落として政権復帰。以後衆参の国政選挙で連勝を重ねます。「選挙に強い総裁」は「落選したらただの人」とみなされる国会議員の世界で何より大切。そこで17年3月の党大会で総裁「任期3年・3選まで」認めると正式決定しました。安倍総裁の任期は15年に再選されているのでこれまでの「任期3年・2選まで」だと今年の総裁選には出られなかったところ、改正によって出馬が当然視されています。