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大河ドラマではスルーされた、第一次高天神城の戦いとはどんな合戦だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、第一次高天神城の戦いがスルーされていた。いったいどんな合戦だったのか、取り上げることにしよう。

 天正2年5月、武田軍は約2万5千の軍勢を率い、遠江東部の徳川方の高天神城(静岡県掛川市)に攻め込んだ。迎え撃つ高天神城の小笠原氏の軍勢は、わずか1千にも満たなかったといわれている。

 ただちに小笠原氏は、家康に援軍を要請したが、それはなかなか実現しなかった。というのも、武田軍は複数のルートから侵攻してくる可能性があったうえに、そもそも動員できる軍勢が少なかった。そこで、家康は盟友の織田信長に窮状を訴えた。

 ところが、信長は上洛しており、すぐに援軍を送り込むことができなかった。この間、小笠原氏の籠城戦は約60日におよび、城内の兵糧は尽きかけていたという。もはや落城は時間の問題だった。

 家康は高天神城の窮状を知ってはいたが、再三にわたる救援要請に対して、ついに応えることがなかった。結局、小笠原氏は武田軍の激しい攻撃に屈し、最後は城兵を助けるという条件で、ついに開城したのである。

 戦後、武田氏は約束を守り、城兵の命を助けたので、武田軍に加わる徳川方の将兵もいたという。また、徳川方へ戻ることを希望する将兵については、それを許した。高天神城を守備していた小笠原氏は、徳川方を見限って、武田方に与することにしたのである。

 武田軍が小笠原氏やその城兵に寛大な措置をしたので、その名声はただちに広まることになった。一方で、織田氏、徳川氏はただちに援軍を派遣しなかったので、不評だけが残ることになったという。

 同年6月、信長は重い腰を上げて、自ら軍勢を率いて岐阜を発ったが、その途中で高天神城の落城を知ったという。家康は信長を出迎えて礼を述べると、兵糧調達の費用として黄金を与えられた。家康は黄金の皮袋を馬に乗せて持ち帰ると、信長はそのまま岐阜に帰った。

 こうして高天神城は武田方が接収し、家康は遠江東部の重要な基点を失った。その後、勃発したのが、あまりに有名な長篠の戦いなのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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