三流大学:卒業式での姫路市長の発言に違和感を感じる理由:そして全国の卒業生たちへ
■卒業式での姫路市長の発言
報道によれば、姫路市内の大学の卒業式に来賓として呼ばれた姫路市長の式辞が問題視されています。
「自分を三流大学出身だと思っていたら、四流や五流になるかもしれない」
この発言が、問題とされました。
しかし、市長ご自身は、「エールのつもりだった」と語り、自分も新設大学出身で頑張った話をしたもので悪意はなかったと述べています。
<卒業式で「三流大学」と発言、姫路市長「エール送るつもりだった」:読売新聞3/31>
市長は式辞で言っています。
「私は母校を誇りに思い、恥じない生き方をしてきた。人として一流の生き方をしてください」
■市長発言への賛否両論の評価
ネットや世間の評価も、賛否両論ですね。
「三流大学呼ばわりはひどい」
「クズ市長」
というものから、
「良い話」
「前後の文脈を見れば問題なし」
「(批判は)言葉狩り」
といったものまで様々です。
タレントさんも話題にしています。
<松尾貴史が姫路市長の〝三流大学〟発言を擁護「悪意が無い」「語句そのものだけを問題視」:東京スポーツ3/31>
■それでも「三流大学」に違和感を感じる理由
ネット上の声の中には、「話の内容は良いが『三流大学』という言葉を使う必要はなかった」というものがあります。
卒業式は、結婚式などと並び「ハレ」の場です。晴れがましい、お祝いの場です。そこで、「三流大学」というネガティブな言葉はふさわしくないと感じる人は多いでしょう。
結婚式でも、「新郎は三流大学出身ですが、努力を重ねて今の地位を得ました」とは、紹介されないでしょう。
華やかな場では否定的な表現を使わないのは、お約束です、
では、たとえば東京大学の卒業式で「君たちは一流大学出身者としての誇りをもって」と語るのはどうでしょうか。
問題なしでしょうか。それとも、少し違和感を感じるでしょうか。
一流、二流、三流といった表現は、比較から生まれるものでしょう。
一方、卒業式で語られる、愛校心、誇りといったものは、比較から生まれるものではないと思います。
小中校大、専門学校、どの学校でも、自分の出身学校を愛し、誇りを持ち、そして卒業後にさらに素晴らしい人生を歩むのが、健康的な姿です。
(結婚式だと「一流大学」と言っても、違和感は少ないですね。結婚式は、新郎新婦をべたほめし、世界一の花婿花嫁と言ってよい場だからでしょう)
■愛と誇りと比較
私たちは比較が好きです。順位をつけ、星の数をつけ、ランキングを作ります。
けれども、私たちは比較されることは嫌います。愛や誇りは、比較からは生まれません。
子供が隣の子と比較されたり、兄弟姉妹と比較されたりすると、とても怒りますね。
子供は、自分のことを比較ではなく、かけがえのない存在として愛してほしいのです。
中学生高校生で、卒業式の日に「このクラスで良かった」などと語る子がいますが、これは比較ではないでしょう。どの子供も若者も、その学校、そのクラスで頑張ったことによって、このクラスが好き、この学校が好きと思えます。
郷土愛も、比較ではないでしょう。他県との比較を楽しむことはありますが、自分の故郷が好きという思いは、比較から生まれたものではありません。
一流、二流、三流。世間はそんなことを言います。ある一つの物差し(尺度)で測れば、順位はつきます。世間からの評価が違うのも事実です。世の中、そんなに甘くありません。
けれども、本来評価はもっと総合的であるべきですし、個々人の心にとっては、客観的な物差しは、あまり意味がありません。
市長としては、自分の母校への世間からの評価に負けず、むしろバネとして頑張った経験からの言葉だったのでしょうが、それでもちょっと言葉を間違えたかもしれません。けれど、趣旨には賛成です。
全国の卒業生のみなさん。母校を愛し、誇りを持ちましょう。
市長が語る「人として一流の生き方」とは、お金や出世だけではなく、人としての誠実でより良い生き方へのおすすめでしょう。
比較から生まれる自信は不安定です(他人との比較ではない自尊感情、自己肯定感、自信のつけ方:ほめることの危険性、では何をほめたら良いのか:ヤフーニュース個人有料。
競争を頑張ることは良いこと。社会からの評価を上げることも大切。でも、その土台として、人には比較ではない愛や信頼や自信が必要なのです。