Vリーガーがコードブルー? ヴィアティン三重・米村尊は看護師として働きながらVリーグトップを目指す
救命の看護師もバレーボールも「100%」
練習に向かう車の中は、米村尊にとって、「看護師」と「バレーボール選手」のスイッチを入れ替える貴重な時間だ。
「どちらのウェイトが高いか、というのはありません。バレーボール選手としての自分は100%バレーボール選手として全力だし、看護師としての自分も看護師として100%全力。どちらも自分にとっては本当に好きなことだから、すごく幸せだな、と。ほんと、心からそう思います」
日本バレーボールのトップリーグである「V・LEAGUE」。大企業が有するチームが名を連ねるトップカテゴリーの「V1」から「V3」まで男子は25チームが所属。米村がプレーする「ヴィアティン三重」は「V3」のカテゴリーに属し、企業を母体とするのではなく、三重県を拠点として総合型地域スポーツクラブとしてJリーグ加盟を目指すサッカー、新体操、ハンドボール、ビーチサッカーなどさまざまな競技のクラブを擁する。
その中でバレーボールクラブは16年に発足。最初は21年に開催される三重国体に向けた強化指定チームとしてスタートしたが、クラブの拠点である桑名市のみならず、津市とも包括連携協定を締結。県内のトップ企業である三交不動産やコスモ石油もスポンサーとしてチームの活動に賛同、着々と活躍の幅を広げている。
所属する選手やスタッフはそれぞれ仕事も異なり、クラブのスポンサー企業で働く選手もいれば、元教員や現職の銀行員など業種は様々。そんな中でも最も異色といえるのが、三重県内の病院の救命救急センターで正看護師として働く米村だ。
バレーボール界を見渡せば、女子のV1に属する埼玉上尾メディックス、男子V1の大分三好ヴァイセアドラーはどちらも病院を母体とするチームであり、准看護師や病院事務の資格を持って働く選手もいるが、国立大学の医学部を卒業し、以後、大学病院のICUや救命救急センターでの勤務を10年以上も継続しながら選手としてのキャリアも重ねて来たバレーボール選手は、おそらく彼だけ。
だがそれを特別だと思うことはない。
「看護師、特に救急はチームなんです。医者が監督でも、看護師が監督でも動けない。いろんな部署が手を取り合わないと成り立たないんです。それはヴィアティンでも同じだし、バレーボールってチームじゃないですか。セッター、キャプテン、監督という役割があって、橋渡し、という面では看護師をしているから学ぶこともすごく役立つ。救急という現場で、人が亡くなったり、家族が泣き叫んでいるのを見れば、ガツン、とメンタルに来る時もあります。もちろんバレーボールでも負けたり、うまく行かないこともあるけれど、バレーボールは次に取り返せるじゃないですか。だから逆にそれを仕事に生かして、ダメだったこと、今日亡くなった方のこと、みんなで振り返りをして次につなげる。たとえば連携がうまくいかなかったならば、報告書をつくって、『この時の悔しさを忘れないようにしよう』って話したんです。次、できた時にその達成感を味わえればそれが成長したということにつながる。だからバレーボールも、看護師も一緒なんです」
今は胸を張って、自分がしていることに誇りを持てると言うことができる。でも、最初からそうだったわけではない。米村を強くしたのは、積み重なった“劣等感”だった。
泥臭く積み上げても「お前は竹光だ」
バレーボールを始めたのは中学生になってから。当時の身長は136.2センチで背をかがめなくてもネットの下を通り抜けることができるほどで、高さが利になるバレーボールでは決して恵まれていたわけではない。お世辞にも強豪と言えるレベルではなかったが、朝、昼、放課後。繰り返される練習がただ楽しくて、コートエンドから打つフローターサーブがネットを越えるまで、ひたすらステージ前の防球ネットに向かってサーブを打ち続ける毎日を夢中で過ごした。
後に続く、バレーボール選手として運命の出会いは中学3年の時。当時、市内で一番の強豪校から赴任し、監督に就任した女性教諭が、米村のバレーボール選手としての本能を目覚めさせた。基本のプレーから叩き込まれたのはもちろんだが、特に重視されたのはバレーボール、そして“チーム”で戦うために必要な態度や姿勢。練習試合で何もせず負けたにも関わらず、周囲に声すらかけずにいたキャプテンの米村を監督は厳しく叱責した。
「『あんたはプライドがないんね』と。チームを引っ張る立場であるにも関わらず、やるべきこともしないで平然としている。だから先生は怒ったんです。闘うために何が大切か、何度も怒って、僕の闘争心を芽生えさせてくれた。その後『出して下さい、出して下さい』と泣きながら何度も言いに行って。悔しくて、人前で泣いたのはその時が初めてでした」
高校は学区内で一番の進学校でバレーボール部へ入部。ひたむきに努力する姿や、リベロとしての資質を評価し、関東の強豪大学へ進学しないか。そう声をかけてくれる人もいて、自分にもそんな可能性があるのか、と思うと素直に嬉しく、揺らがなかったわけではない。だが、本当に自分がそんなトップレベルが集う場所でバレーボールができるのか、と問われれば胸を張れる自信がない。
悩んだ結果、米村が選んだのは長崎大学医学部保健学科看護学専攻。幼い頃にウイルス性の肝炎にかかり、生死の境をさまよった経験から医学や看護の世界に興味があったこと。加えて、7歳の頃に脳卒中で急逝した父の分も自分を逞しく育ててくれた母のためにも、大学を出たらすぐに就職したかった。
日々の授業や実習、忙しさに明け暮れる日々ではあったが、大学バレーボール部の練習に加え、長崎教員クラブの練習にも参加し、北京五輪に出場した朝長孝介(現:大村工高監督)がセッターを務めたクラブカップでは米村もリベロとして出場、初めて全国優勝も経験した。少なからぬ達成感を感じられる初めての機会ではあったが、米村にとって今も忘れられずに残るのは、頂点に立った喜びよりも、自身に向けて発せられた心無い一言。
「勘違いするなよ、と。同じクラブにいた選手と比較して『高校時代に実績を残してきたヤツは、たとえ今は錆びていても刀だから磨けば光る。でもお前は違う。竹光だ。抜けば光るように見えるかもしれないけれど、いくら磨いても竹は竹。お前に価値があるわけじゃない』と。その時はさすがに、バレーを辞めようと思いました」
いくら努力しても過去に築いた栄光に勝てない。今、たとえ同じ場所に立っていても自分を評価してくれる人なんていない。この先バレーボールを続けても、限界など見えている。それは誰よりも自分がわかっているつもりだ。
もうバレーボールは終わりにして看護師として生きる。何度もそう思った。だが、それでもやめられない。諦められないし、諦めたくない。どれだけ格好悪くても、ヘタクソでも、バレーボールが好きで、ボールを追いかけていたかった。
こんな自分でもできるんだ
葛藤しながらもバレーボール選手として歩み続ける一方で、看護師としてのキャリアも磨いた。最初の勤務地である長崎大医学部で整形外科を経てICUへ。生死にかかわる現場で直面する厳しさの中で、何もできず、過度なストレスから2週間で体重が7キロ落ちた。
それでも日々の経験は着実に自身の力となり、最初は心電図も見ることすらできなかった新米看護師も半年が過ぎる頃には、ごく自然に、その場で求められることに対応できるようになった。小さな縁がつながり、チャレンジ2の奈良NBKでプレーすることが決まった際も、看護師という職業が強みになり、練習拠点となる場に近い救急センターを擁する病院での採用もすぐに決まった。女性が多い職場で、20代後半から30代、40代は結婚や出産、育児で現場を離れる看護師も多いことから、米村のように実績のある男性看護師の需要は高く、奈良からつくばユナイテッド、そしてヴィアティン三重へと選手としてプレーするクラブが変わる際も、その都度、自分のスキルと経験を生かせる職場を探し、キャリアアップを重ねて来た。
夜勤が続くと、起きてから時計を見ても朝なのか、夕方なのかわからないことも日常で、人の生死に携わる最前線で働く中、幾多もの厳しさと直面する。好きな仕事、とはいえ、決して楽な仕事ではないが、それが自分で選び、歩み続ける自分の道。
「救命で働くのは確かに大変ではあるけれどそれは特別じゃない。学生の頃エリートだった選手が練習に費やす時間、僕は受験勉強や看護師の実習に必死だった時期があるから、今、こうして仕事ができているし、それだけの努力はしてきたつもりです。学生の頃にバレーでインターハイや春高のような全国大会に出たこともないし、“竹光”と言われたこともあったけれど、でも、そんな劣等感が僕のモチベーション。バレーボールもヘタクソだったけれど諦めなかったから、ここまで続けてくることができた。そのことには自信も誇りも持っています。むしろ僕はこんな選手でもこれだけ長くバレーボールを続けられる、こんな俺でもできる、という思いがあるし、自分はVリーグの選手なんだ、というプライドがありますから」
海外トップリーグでも、大企業が擁する国内トップリーグでもない。だが、ここが自分の戦う場所で、常に全力を出し切るべき幸せな場所。キャリアがないとバカにされても、いい歳なのにと笑われても、これだけは譲れない。
誰よりも、バレーボールが大好きだ、ということだけは。
憧れだけでなく、さまざまな思いと、バレーボール選手としてのプライドを抱き、V2昇格を目指して臨む、ヴィアティン三重の新たなシーズンは11月17日に開幕する。