織田信長は将来的に中国へ攻め込もうとしたのだろうか。その真偽を考える
今回の大河ドラマ「どうする家康」では、織田信長が明智光秀に討たれた。かつて、織田信長は将来的に中国へ攻め込もうとしたという説があったが、その真偽を考えることにしよう。
信長には、「唐入り」(中国「明」への侵攻)の計画があったという。フロイスはイエズス会の総長に宛てて「(信長が)毛利氏を征服し終えて日本の全六十六ヵ国の絶対領主となったならば、シナ(中国・明)に渡って武力でこれを奪うため一大艦隊を準備させる」と報告書を送った(『イエズス会日本年報』1582年11月5日付)。
続けて「(信長は)まず全日本を征服してこれをキリシタンとし、それからシナを征服しよう」と記した。フロイスは信長の全国統一後、日本人すべてをキリスト教徒とし、さらに信長が明を征服すると報告したのである。注意すべきは、書簡が信長の死後に送られたことだ。
最近の研究では、フロイスが信長の明侵攻という真意を記録したとは考え難いと指摘された。イエズス会にとって、明へのキリスト教布教は長年にわたる悲願だった。つまり、フロイスは信長が全国統一後に日本人をキリシタンにすると、さらに明へ侵攻し、布教活動を行うシナリオを創作したに過ぎないと考えられる。
フロイスは信長から日本や明における布教が保証されたことを強調し、本能寺の変で信長が横死したので、明での布教の遅れたことにしようとした。つまり、フロイスは自らの失態を隠すため、信長の死により布教の計画が頓挫したことにしたのである。
一方で当時、スペインが明征服を計画していたとの指摘もあり、信長による明征服の可能性は否定できないとの意見もある。1580年、ポルトガルはスペインに併合されたが、フロイスらはスペインに敵対した。フロイスは信長・秀吉に軍事支援を期待し、スペインに対抗しようとした可能性があるという。
とはいえ、信長は諸大名(上杉氏、長宗我部氏など)と戦っていたので、明へ侵攻したり、スペインと交戦したりしようとしたのか疑わしく、明確な根拠を見出すことが難しい。信長に十分なゆとりがあったのかも疑問である。明確な根拠がない以上、信長の明征服などの説は、到底受け入れがたいといえよう。
この説を受けて、高齢だった光秀は信長によって、明侵攻に動員されることを悲観し、信長を討ったという説すらあるが、こちらも成り立たないと考えるべきだろう。
主要参考文献
荒木和憲「信長は「明征服」を実行しようとしていたのか?」(洋泉社編集部『ここまでわかった 本能寺の変と明智光秀』洋泉社歴史新書y、2016年)。