歩く旅のすすめ 日帰りで楽しむ五街道歩き 旅の始まりは江戸東京日本橋
東京日本橋にやってきた。
ここは、江戸時代に徳川幕府により整備された五街道が始まる場所。
五街道を歩いてみようと突然思い立ち、思いったら吉日という考えの私は、リュックとスニーカー、動きやすい服装を準備した。どれも普段使っているものなので、何かを始めようとする時に新しく必要な物を購入することが無い事はとても助かった。街道を実際に歩く旅をして自分が楽しければ、その時に必要な物を購入すればよいか。とりあえず歩いてみよう。
京都三条大橋までの距離は東海道を歩いて約492km、中山道を歩いて約526kmであり、どちらを選んでも途方もない距離になる。この距離を江戸時代の旅人は約二週間で歩いたという。計算すると1日に35~38kmもの距離を歩くことになる。江戸時代の人はすごいと思う反面、自分だって同じ人間ではないかと思いなおそうとするけれど、さすがに無理がある。現代人にとっては歩いて旅をするという概念すらない。そして、14日間続けて旅が出来るような休みを取ることはかなり難しい。子育てが一段落したおばさんである私はまだ仕事もしている為、14日間の休みは現実的ではない。もっと気軽に街道を歩く旅を楽しめる方法は無いかと思いついたのが、日帰りで歩き繋げる街道歩きだった。
江戸時代、幕府が管理していた五街道は要所に宿場が設けられており、多くの人々が暮らす宿場は集落となっていた。明治以降になると社会は近代化し、人々が多く住んでいる宿場であった街を縫うように道路や鉄道が整備されている。うまく交通機関を利用すれば小刻みで街道歩きが楽しめるのではないか。
地下鉄に乗って日本橋駅に到着。駅構内で日本橋の説明版が目に入りよく見ると、見覚えがある絵が描かれていた。歌川広重が書いた日本橋の絵。この絵が描かれたのは天保中期、1840年前後とあるので今から180年以上も前の風景。高い建物が無く、空気も澄んでいるのか富士山が描かれている。絵の中に書かれている人々の多さに気付く。1800年代、江戸の人口は100万人を超えたと言われており世界で一番人口の多い都市であったかもしれないと言われている事を思い出して納得し、地上に向かうエスカレーターに乗り日本橋に向かった。
日本橋と書かれた高速道路の高架の下に交差するように日本橋がある。旅の始まりだと思うと気分は上々だ。日本橋の北西にある日本橋の説明版に橋柱に書かれている日本橋の文字は徳川最後の将軍、徳川慶喜の筆によるものと書かれている。これはぜひとも見てみたい。また、北西には道路の起点を表す道路元標があり、日本橋は今も昔も道路の起点であり、地図が好きな私にとっては感慨深く、ここから伸びる道を頭の中の地図に思い浮かべ、その距離の壮大さを感じた。また、北東には魚河岸跡の碑がある。日本橋川より船で魚が陸揚げされた場所だ。江戸と言えば江戸前寿司。新鮮な魚は江戸の人々には欠かせない食べ物であったのだろう。
日本橋を背にすると正面には日本橋三越が立っている。北に向かっている道路は国道17号中山道と国道4号日光街道・奥州街道で、道路の両側にはデパートやビルが立ち並んでいる。ここは都会の景色であるが、道は遠くまで続いている。私がこれから歩く道だ。
日本橋と日本橋の文字は徳川慶喜公
現在の日本橋にある橋梁は1911年(明治44年)に造られた石造の二重アーチ橋であり、橋の北西詰には日本国道路元標が設置されています。1603年の翌年に五街道の起点と定められた日本橋は、400年以上たった現在も日本の道路の原点となっています。また、日本橋の4つの柱に書かれている日本橋、にほんはしの文字は、最後の将軍である徳川慶喜公によるものです。そのことを知らないと見逃してしまいそうですが、知ると誰かに伝えて自慢したくなります。
今も昔も道路の起点
かつては江戸の中心であり五街道の起点であった場所は、現在では7本の国道の起点となっています。東海道は国道1号、中山道は国道17号、甲州街道は国道20号、日光街道と奥州街道は国道4号です。国道4号は日本で一番長い国道でもあります。これら4本は五街道を継承している国道です。その他、国道6号は水戸街道、国道14号は千葉街道の全身でもある房総往還であり、五街道以外の古道を継承しています。最後に国道15号は日本橋を起点とする国道の中で唯一古道を継承しておらず、明治1号国道として整備され、現在では第1京浜国道とも呼ばれています。
日本橋の北西には日本道路元標の複製が置かれています。本物は橋の上の道路の真ん中に埋め込まれており、その場所から道路の距離を測定されました。1952年(昭和27年)に新しい道路法が施行され道路の起終点と言う役割を終えており、現在では道路の付属物という扱いになりましたが、日本橋の道路元標や全国各地にある道路元標は地域の教育委員会などによって保管されている場所が多いようです。
江戸の豪商であった呉服商の越後屋
日本橋川は西から東に流れており、日本橋を境にして西側が江戸城という立地である為、日本橋から西側には大名屋敷が立ち並んでいました。反対に日本橋から東側は商人の町となり、橋の北西に店を構えたのが当時の呉服商である越後屋でした。江戸の住民にとって日本橋の呉服商で着物を買う事は大きな憧れだったようです。越後屋は現在の日本橋三越であり、日本初の百貨店の前身でもありました。
物流の要であった日本橋と日本橋川と川岸
五街道の起点である日本橋は陸路での物流が盛んでしたが、もちろん江戸時代には車やトラックはありません。木材など大きい物は日本橋がかかる日本橋川を利用した水運であり、当時の絵には川に多くの船が描かれています。日本橋川は隅田川に合流して東京湾に流れていますし、この辺りは江戸初期の街づくりの際に埋め立てが行われた経緯もあります。海抜が低く潮の満ち引きを感じるような場所も近くにある為、川の流れは激しい事は無く船を川の上流に向かわせるのも比較的容易に出来たのではないかと思っています。
日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いは幕府や江戸中で消費される魚を荷揚げする魚河岸があり、現在でも日本橋の北東側に日本橋魚市場発祥の地として残されています。