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【戦国こぼれ話】武田勝頼を裏切った小山田信茂。実際には、本当に逆臣だったのだろうか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
武田菱は、武田氏の家紋。結局、小山田信茂の裏切りが決定打となり、滅亡したという。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 小山田信茂は「武田二十四将」の一人として知られ、武田信玄、勝頼の2代に仕えた重臣である。山梨県は、信茂の人物像を紹介する「信茂と勝頼(仮)」なる映像を制作するという。はたして、信茂は忠臣だったのか、それとも逆臣だったのか。

■小山田信茂とは

 小山田信茂は、天文8年(1539)に谷村城(山梨県都留市)主の信有の子として誕生した(生年については諸説あり)。天文21年(1552)に父が亡くなったので、家督を継承した。以降、信茂は武田信玄、勝頼の2代にわたって仕えた。

 武田氏が転機を迎えたのは、元亀4年(1573)4月に信玄が亡くなり、子で四男の勝頼が跡を継いだときである。以降、勝頼は織田信長、徳川家康らと戦うが、徐々に劣勢に追い込まれた。こうして勝頼は、織田・徳川連合軍と最後の戦いを迎えた。

■劣勢に追い込まれた武田勝頼

 天正10年(1582)3月、勝頼を裏切った穴山信君は、家康の案内者となり、駿河から甲斐へと侵攻した。目指したのは、勝頼の籠る新府城(山梨県韮崎市)である。

 一方の勝頼は、高遠城(長野県伊那市)をはじめ、味方の諸城が次々と陥落したので、非常に焦っていた。しかも、織田信忠(信長の嫡男)や家康の軍勢が新府に向かっていたことを知り、ただ焦るばかりだった。

 この状況に武田方を見限る家臣が続出し、一門や家老らは早々に逃げ出すありさまだった。すでに、信君のような重臣が武田方から離反しており、勝頼の周囲には守備をすべき軍勢すら事欠くありさまだった。

 親族衆の武田信豊は、わずかな従者を引き連れ、小諸城(長野県小諸市)で籠城しようとした。同年3月、信豊は城代の下曽根浄喜に叛かれ、母や嫡男とともに自害して果てた。浄喜は信豊の首を信長に持参したが、結局は誅殺されたという。

■信茂を頼った勝頼

 勝頼は危機的な状況を迎えるなかで、新府城で籠城するのは困難と判断した。同年3月、勝頼は新府城に火を放つと、家臣の信茂を頼り、岩殿城(山梨県大月市)に向かうことにした。

 実は、岩殿城へ向かうことを決めるまでは、紆余曲折があった。勝頼の嫡男・信勝は、新府城での籠城を主張したといわれている。

 一方、武田氏の重臣・真田昌幸は、上野岩櫃城(群馬県東吾妻町)へ逃れることを提案したという。しかし、いずれの案も採用されなかった。

 新府城に放火した際、人質を残したままだったので、彼らが焼死する姿はまさしく地獄絵図だったという。勝頼は200余人の者たちと逃避行をしたが、自身の妻、伯母など女性も多数含まれていた。

 馬に乗っている者はわずかな人数で、あとは歩いて岩殿城を目指した。女性や子供は山道を歩き慣れず、しかも裸足だったため、血が足に滲んでいたという。誠に気の毒な光景だった。

■裏切られた勝頼

 こうして勝頼の一行は、ようやく岩殿城へ近づいた。ところが、勝頼一行には、過酷な現実が待ち構えていた。『信長公記』によると、勝頼は小山田の館にたどり着いたが、信茂は勝頼を受け入れなかったという。

 『三河物語』では、勝頼が信茂のもとに使者を派遣したが、戻ってこなかったので、信茂が裏切ったことを知ったという。信茂は勝頼が郡内に入れないように、入り口を封鎖したとの説もある(『理慶尼の記』など)。

 『甲陽軍鑑』の記述も具体的である。勝頼は郡内領への入り口の鶴瀬(甲州市大和町)というところで、7日間にわたり滞在し、信茂の迎えを待った。

 しかし、3月9日の夜、信茂は郡内領への道を封鎖すると、勝頼に木戸から郡内へ逃げるよう呼び掛けた。しかし、それは信茂の作戦で、小山田八左衛門(信茂の従兄弟)と武田信堯(勝頼の従兄弟)が信茂の人質を郡内へ退避させると、勝頼らに鉄砲を撃ったと書かれている。

■悲惨な信茂の最期

 戦後、信茂には悲惨な最期が待ち構えていた。信茂は信長の配下に加わるべく、子を人質として差し出そうとした。ところが、逆に信茂は不忠であることを指弾され、処刑されたと伝わっている。

 殺されたのは信茂だけではなく、嫡男、老母、妻、女子も甲斐善光寺(山梨県甲府市)で処刑された(『甲乱記』など)。主君を裏切った代償は、あまりに大きかったのである。

 とはいえ、今後は信茂の裏切りだけでなく、総合的な研究によって、再評価が行われるとのこと。大いに期待して、待ちたいと思う。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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