【大河ドラマ鎌倉殿の13人】鎌倉幕府軍、都に迫る!その時、後鳥羽上皇は?
承久3年(1221)6月8日、鎌倉幕府軍に敗れた官軍の藤原秀康らは、傷を負いつつも、都に辿り付きました。彼らは、摩免戸(岐阜県各務原市前渡)で敗北したことを報告したので、御所にいた人々は顔色を変え、騒動となったようです。
女官や北面の武士、医師などが右往左往し、東西に走り迷う大混乱となったとのこと。彼彼女らの心中には(何れ、幕府軍が都に到達する。どうしよう)との恐れがあったのでしょう。
幕府軍迫るの報に、仲恭天皇や後鳥羽上皇は、比叡山に避難することになりました。後鳥羽上皇は「御直衣に御腹巻 日照笠」との出立ちだったようです。皆、馬に乗っての出発です。すぐに叡山に入ったわけではなく、尊長法印(僧侶。後鳥羽上皇の側近)の押小路河原の邸宅に入り、そこで「防戦」についての評定があり。黄昏時に叡山に入られたのでした。
仲恭天皇は、女房輿を用いて、密かに行幸されました(三種の神器の剣と勾玉も輿にあり)。
その頃、幕軍の北条朝時(北陸道大将軍)は、都に進撃していましたが、その途上、越中国般若野庄において、「北条義時を誅殺せよ」との宣旨(天皇の命令を伝える文書)が届けられました。
もちろん、幕軍がそれに従うわけはありません。北陸道軍はそのまま進軍し、官軍方の武士と交戦。これを破り、降伏に追い込んでいます。