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家康股肱の臣、石川数正はどの石川氏の末裔か

森岡浩姓氏研究家
伊勢亀山城址(筆者撮影)

「どうする家康」に初回から登場、酒井忠次とともに家康股肱の臣として活躍している石川数正。23日の放送でも、浅井方に転じようとした徳川家康に対して先を見越して判断するように諫めるなど、重要な役割を演じている。

この「石川」という名字は地名に由来するもので、全国各地に「石川」地名があることから、石川氏も各地にみられる。数正はどの石川氏の流れを汲んでいるのだろうか。

古代豪族の石川氏

歴史的にみると、最も古い石川氏は古代豪族蘇我氏一族の石川氏である。蘇我氏は大化の改新で滅んだが、生き残った一族が天武天皇13年(684)石川朝臣と改姓した。大和国高市郡石川に因むとも、河内国石川郡に因むともいわれる。奈良時代に石川年足や石川豊成が活躍した。

続いて、平安時代中期に活躍した武蔵国の武士団、横山党の一族が武蔵国久良岐郡石川村(横浜市南区堀ノ内町)に住んで石川氏を称したことが知られている。

各地に生まれた石川氏

その後、各地で地名に由来する石川氏が誕生した。

最も有名なのが河内源氏嫡流の石川氏である。源頼信が河内国石川郡石川荘(大阪府羽曳野市)に居を構えたのが遠祖で、源義家が六男義時に石川荘を分与したことで独立し、石川氏を称した。治承4年(1180)以仁王の令旨を受けて全国の源氏勢が蜂起した際、平清盛の策略で鳥羽(京都市伏見区)まで一族が誘い出され包囲されて殲滅された。

その際、長男の義兼は石川にいたため難を逃れたものの、生け捕りとなった後に幽閉された。その後、木曽義仲の入京にともなう平家の都落ちで脱出、河内に戻って河内源氏を再興、鎌倉時代には幕府の御家人となった。

陸奥国石川郡(福島県)からは清和源氏満快流の石川氏が生まれた。源頼遠が義家に従って前九年の役に従軍し、その討死後に子有光が石川郡に所領を与えられ、康平6年(1063)白河郡藤田郷(福島県石川町)に住んで石川氏となったという。戦国時代には陸奥南部の大名となったが、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったことから所領を没収され、江戸時代は仙台藩重臣となった。

常陸国の有力武士だった大掾氏の一族が同国茨城郡石川(茨城県水戸市元石川町)に住んで名乗った石川氏もある。こちらも鎌倉幕府の御家人となり、戦国時代まで続いている。

この他にも、中世には陸奥国、丹後国など各地に地元の地名に因む石川氏がいた。

石川数正のルーツ

では石川数正の出た石川氏のルーツはどれかというと、同家では河内源氏石川氏の末裔と伝えている。

義兼から5代目の義忠は小山氏に預けられ、子孫は小山氏を称していたが、子孫政康の時に三河国碧海郡小河城(愛知県安城市)に移って石川氏に復し、その子親康の時に松平氏に仕えたという。数正は親康の曾孫にあたる。

ネタバレを言えば、数正はのちに徳川家を出奔して豊臣秀吉に仕え、信濃松本で8万石を領している。この出奔の理由は諸説あり、「どうする家康」でどう描かれるかも今後の注目の1つである。

なお、江戸時代子孫は伊勢亀山藩主となった。

姓氏研究家

1961年高知県生まれ。早稲田大学政経学部在学中から独学で名字の研究をはじめる。長い歴史をもち、不明なことも多い名字の世界を、歴史学や地名学、民俗学などさまざまな分野からの多角的なアプローチで追求し、文献だけにとらわれない研究を続けている。著書は「全国名字大辞典」「日本名門・名家大辞典」「47都道府県・名字百科」など多数。2017年から5年間NHK「日本人のおなまえ」にレギュラー出演。

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