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【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝の挙兵後、平清盛がすぐに追討の兵を送らなかった深いワケ

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝の挙兵後、なぜ平清盛はすぐに追討の兵を送らなかったのだろうか。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」9回目では、源頼朝が富士川の戦いで平家に戦わずして勝った。そもそも平清盛は、なぜもっと早く追討の兵を送らなかったのか。その点を深く掘り下げてみよう。

■各地で勃発する反乱

 治承4年(1180)4月、以仁王が各地の豪族に「打倒平家」の檄を飛ばし、自らも源頼政とともに挙兵した。しかし、以仁王らの奮戦も虚しく、平家にあっけなく鎮圧された。

 以仁王は無念の死を遂げたが、それは決して無駄ではなかった。反平家の機運が高まりを見せ、やがて各地で「打倒平家」の兵が挙がった。その中心にあったのが源氏である。

 源頼朝が伊豆国で挙兵したのは、同年8月のことである。この情報は翌月に京都にも伝わり、都の人々を大いに驚かせた。当然、福原(神戸市中央区・兵庫区)にいた平清盛も知っていたはずである。情報をもたらしたのは、大庭景親だった。

 9月になると、信濃国では木曽義仲、甲斐国では武田信義、一条忠頼らが「打倒平家」の檄に応じた。さらに、紀伊国では熊野別当湛増が、九州でも「打倒平家」の動きがあった。

 京都から遠い東国ならまだしも、平家の勢力基盤である西国各地で反平家の兵が挙がったのは、平家にとって大きな誤算だったに違いない。こうして全国的な内乱の様相を呈したのである。

■平清盛の動き

 頼朝の挙兵を知った清盛は、ただちに頼朝追討の宣旨を受けた。宣旨は朝廷の命令なので、清盛は頼朝を討つ大きな後ろ盾を得たのである。頼朝は朝敵になったのだ。

 清盛は頼朝を討つべく、大規模な軍勢を東国に派遣することにした。この時点で、清盛は勝利を確信したに違いない。しかし、決してことはうまく運ばなかった。

 平維盛、忠度、知度らが追討軍を組織したものの、なかなか準備が進まなかったのだ。こうなってしまったのには、もちろん何らかの理由が推測される。

 前年閏7月、清盛の長男で後継者たる重盛が亡くなった。これは、平家にとって大きな痛手となった。代わりは重盛の弟・宗盛だったが、いささか力量に欠けていたのはよく知られた事実である。

 平家も清盛一人がすべての意思決定をするわけではないので、重盛のような人物を亡くしたのは痛かった。まずは、平家内部の問題が派兵の遅れにつながったと考えられる。

 こうして維盛らの軍勢は、9月22日に当時の都があった福原を出発しようとした。ところが、ここで問題が発生する。維盛と侍大将を務める藤原忠清が、吉日を選ぶか否かで揉めたのである。

 当時、出陣の日取りは、占いで決めることが珍しくなかった。むろん、それは迷信であるが、当時の人々は信じていたのである。そうして揉めているうちに、出陣は9月29日まで延びてしまった。

 出陣の遅れは致命的だった。相手に迎え撃つだけの時間を与えるからである。その後の富士川の戦いで、平家軍が戦わずして無残な敗北を喫し、維盛らは這う這うの体で京都に逃げ帰った。その点は、こちらこちらをご参照いただきたい。

■むすび

 このほか、清盛は治承3年(1179)に後白河法皇を幽閉するなどの暴挙に出ていた。平家家中の動揺のみならず、朝廷からも総スカンを食っていた。このような体たらくだったので、東国の派兵すら満足にできなかったのではないだろうか。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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