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【深読み「鎌倉殿の13人」】富士川の戦い後、源頼朝が上洛しなかった本当の理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
源頼朝は、なぜそのまま上洛しなかったのだろうか?(写真:アフロ)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」9回目では、源頼朝が富士川の戦いで平家に勝利したにもかかわらず、上洛を断念していた。その理由について、深く掘り下げてみよう。

■ドラマで描かれていた理由

 治承4年(1180)10月、源頼朝が率いる軍勢は、富士川の戦いで平維盛が率いる軍勢を敗走させた。維盛らは、這う這うの体で京都に逃げ帰り、平清盛から厳しく叱責された。

 ドラマの中の頼朝は、勝利の美酒に酔いしれることなく、そのままの勢いで上洛しようと考えた。ところが、肝心の豪族たちは、かなり消極的だった。

 豪族らが口々に言うには、兵糧の調達が問題だという。たしかに、季節は秋から冬に向かい、道中や合戦時の兵糧は問題となるだろう。勢いだけでは済まない問題があった。

 また、上総広常に相談を持ち掛けると、上総国の隣国・常陸国の佐竹氏の動きが気になるという。さすがの広常も、自身の所領がある上総国をほったらかしにして、上洛はできなかった。

 いずれも妥当な考え方であるが、もう少し事情を史料(『吾妻鏡』)に即して考えてみよう。

■頼朝、鎌倉へ

 富士川の戦いで勝利した頼朝は、その勢いで上洛し、平家を討とうとした。ところが、千葉常胤、三浦義澄、上総広常らの有力な豪族は、東国をまず統一すべきであると主張した。

 当時、源氏の一族で常陸国に本拠を置く佐竹義政と甥の秀義は、頼朝に従っていなかった。あろうことか、頼朝の出陣中に背後から脅かす存在でもあった。

 意見を具申された頼朝は佐竹氏を討つことにし、遠江国に安田義定、駿河国に武田信義を置いた。自身は鎌倉に帰還し、東国の経営と佐竹氏討伐に専念することにしたのだ。

 同年11月、頼朝は広常に佐竹討伐を命じた。その結果、義政を討ち取ることに成功し、秀義は居城のある金砂城(茨城県常陸太田市)から逃亡した。そして、源氏の一族で、常陸国に本拠を置く志田義広も頼朝に従うことになった。

 同年12月、上野国の新田義重、里見義成が鎌倉を訪れ、頼朝と協力関係を結んだ。上野国まで進軍していた木曽義仲は、頼朝の威勢が東国一帯に広がるのを確認し、いったん本国の信濃国に引き返したのである。

■飢饉の影響

 こうして頼朝は東国の統一に邁進したが、結局すぐに上洛しなかった。そこには先述した兵糧の問題もあったが、天候不順による飢饉の影響も少なからずあった。

 『高山寺文書』によると、治承4年(1180)という年は、大変な大旱魃があり、作物の生育状況が悪かった。旱魃だったことは、『玉葉』、『山槐記』といった公家日記にも記されている。

 そのような状況下において、東国から大軍を率いて上洛するには、まず兵糧の調達が問題となった。兵糧が乏しくなると、将兵の士気が下がるのは当然のことだった。

 仮に、うまく上洛できても、京都で将兵の食糧を準備するのは大変である。頼朝の兵が民家に押し入り、食糧を強奪するようなことがあれば、頼朝軍は京都の人々の反感を受けるだろう。

 頼朝は単に東国の統一を優先するだけではなく、飢饉の影響により兵糧の調達が困難であることを悟り、いったん鎌倉に戻ったと考えられる。

■むすび

 いったん鎌倉に戻った頼朝が京都に兵を送り込むのは、3年後の寿永2年(1183)のことである。頼朝より先に上洛した木曽義仲を討つためだった。その間、頼朝は東国経営に専念した。

 頼朝は富士川の戦いで平家に勝ったが、実は上洛を志向していなかったかもしれない。東国を基盤にした政権を打ち立てれば十分と考えた可能性もある。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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