「どうする家康」朝鮮人官人・姜沆が見た、徳川家康の人物像を検証する
大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が優柔不断で弱々しく描かれている。ところで、同時代を生きた朝鮮人官人・姜沆は、家康をどのように見たのか、確認しておこう。
姜沆(1567~1618)は朝鮮人官人として知られるが、文禄・慶長の役で日本軍に捕らえられ、日本に連行された。日本に抑留されたのは、慶長2年(1597)から3年間に亘った。
その間、姜沆は儒学者の藤原惺窩と交友を深め、朝鮮儒学を伝えるなどした。重要なのは、日本における捕虜生活や日本の情勢を『看羊録』に記し、本国に報告したことである。同書には戦国大名の人柄などを記しており、徳川家康のことも書かれている。
同書によると、家康は源義定(新田義貞のこと)の11世の孫と記す。家康は松平家の末裔だったが、清和源氏の新田氏の流れを汲むと自称していた。姜沆は、そのことを知っていた。
姜沆によると、家康は大変勇敢で、戦上手だったので、各国の大名が戦いを挑むことはなかったという。織田信長の没後、豊臣秀吉が主導権を握ったので、家康は秀吉と戦った(小牧・長久手の戦い)。この戦いで家康は勝ったが、結果的に秀吉に臣従したと記している。この点は正しい。
続けて姜沆は、家康は嫡男・信康が自分よりも智勇で勝っていたが、次男の秀忠を次期将軍に据えたと記す。しかし、信康は天正7年(1579)に自害しており、また次男は秀康であり、秀忠は三男である。情報に若干の錯誤があるようだ。
姜沆は、家康が険阻(顔つき、態度が険しいこと)だったという。秀吉の在世中、家康は人心を得ていたが、秀吉の没後に台頭すると、人々の望みに沿わなくなったという。それは、野心が剥き出しになったということだろうか。
姜沆が言うには、秀吉が敵となった大名を打ち破っても、相手が服従すれば許し、これまでのとおりの知行を認め、さらに加増することもあったというが、これは必ずしも正確とは言えない。むしろ、徹底して弾圧したのが実情である。
一方、家康は敵への恨みを心に秘め、一度でも大名が反目したならば、必ず相手を死に追いやって満足したと記す。これがどの例を示すのか不明であるが、いささか腑に落ちないところである。
家康の情報に多少の不正確さがあるのはやむを得ないが、姜沆の家康評には納得しがたい点が見受けられる。姜沆は、どうやって家康の情報を入手したのか、今となっては不明である。