大河ドラマでは無視された、織田信長による長島一向一揆への容赦ない苛烈な所業
大河ドラマ「どうする家康」では、岡田准一さんが演じる織田信長が評判だ。今回は、大河ドラマでは無視された、織田信長による長島一向一揆への容赦ない苛烈な所業を取り上げることにしよう。
永禄12年(1569)、織田信長は伊勢北畠氏を大河内城(三重県松阪市)の戦いで破ると、いよいよ北伊勢支配を強固なものにしていった。北畠氏のみならず、北伊勢の諸国人も信長の配下として組み込んだのだ。
しかし、信長に敵対したのは、何も北畠氏らのような武将たちだけではなかった。当時は、反信長の姿勢をとる宗教勢力も侮れない存在だったのだ。中でも一向一揆と大坂本願寺は、信長にとって不倶戴天の敵であったといえよう。
元亀元年(1570)9月、大坂本願寺の顕如は朝倉・浅井・三好三人衆と結び、全国各地の一向宗の門徒に信長に敵対行動を取るよう檄を飛ばした。これまでは、信長が先に軍事行動を起こしたといわれていたが、実際は逆だった。
伊勢国長島(三重県桑名市)には、一向宗の拠点となる願証寺があり、顕如の命を受けて信長に兵を挙げた。こうして、伊勢長島の一向一揆と信長は、全面的な対決に突入したのである。
信長軍は約10万といわれる一向一揆を相手にして、意外にも苦戦を強いられた。一向宗は木曽川沿いに本拠を持ち、水上交通に慣れていた。中州という悪い地形にもかかわらず、その条件を見事に生かして戦ったので、不慣れな信長軍は苦戦を強いられたのだ。
天正元年(1573)9月以降、信長による2回目の長島一向一揆への攻撃が開始された。信長は大湊(三重県伊勢市)惣中の舟を徴発して桑名へ向かい、海上での戦いを有利に進めようとした。さらに九鬼水軍を味方にした信長は、翌年9月頃に一向一揆勢を鎮圧したのである。
信長は最後まで一向一揆を許さず、撫で斬り(皆殺し)にした。信長は、一揆勢が籠る長島・中江の2つの城を幾重もの柵で囲んで放火した。城中には2万の男女がいたが、焼死したと伝わっている。その残酷な所業は、後世にまで伝わった。
信長は抵抗する者に対して、冷酷非情なまでの容赦ない措置を行い、見せしめとしたのである。しかし、各地の一向一揆は、容易に戦いを止めなかった。