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「松井秀喜を敬遠できなかった男」が東京ドームで日本一に挑む

横尾弘一野球ジャーナリスト
1992年夏、松井秀喜は5打席連続四球で高校野球を終えることになった。(写真:岡沢克郎/アフロ)

 日米通算507本塁打をはじめ、平成を代表するスラッガーとして活躍した松井秀喜が、星稜高3年夏の甲子園二回戦で明徳義塾高から四球攻めされたのを覚えている方は多いだろう。5打席続けて松井を歩かせると、甲子園のスタンドは異様な雰囲気となり、その作戦が奏功して3対2で勝利を手にした明徳義塾高の校歌は「帰れ」コールにかき消される。そうして、高校野球のあり方さえ議論された試合で、ボール球を投げ続けた明徳義塾高のマウンドには背番号8の河野和洋が立ち、エースナンバーの1を背負った岡村憲二はファーストを守っていた。

 高知県で生まれ育ち、小学生の時から県内で無敵だったエースで四番の岡村は、中村中3年夏の県大会決勝で明徳義塾中にノーヒットノーランで完敗。古豪の高知商高や高知高からも声はかけられたが、この負けも決め手となって明徳義塾高へ進学する。

 練習や寮生活のキツさに耐えられず、40人近くが入部したもののすぐ半数になる環境。そんな中でも、1学年上で正三塁手だった津川 力(現・NPB審判員=元・ヤクルト)に憧れた岡村は、入学直後から大きな期待を受ける。夏の県大会を準優勝で終えると、コーチだった馬淵史郎が監督に就任し、岡村は1年生でひとりだけ遠征メンバーに選ばれる。右ヒジを痛めていたためマウンドには立てなかったが、サードで攻守に成長。2年夏には7年ぶりに甲子園出場を果たし、二回戦ではリリーフ登板した。

「絶対に、ここへ戻ってくる」

 そう誓ってグラウンドの土を持ち帰らなかった岡村は、その秋から投打の中心となってチームを牽引。毎朝5時からランニングと素振りを欠かさず、3年夏は圧倒的な力を見せつけて2年連続で甲子園への切符を手にする。抽選会では、主将が出場49校中しんがりとなる大会7日目第3試合のクジを引き当てる。唯一、一回戦を勝ち上がった高校と対戦する位置だ。そして、その一回戦に長岡向陵高と星稜高が入った。この時点から、岡村たちは対星稜、対松井に向けて準備を始める。

「組み合わせが決まって2~3日後だったと思います。練習を終えて宿舎に戻ると、ミーティングで馬淵監督が『いいか、星稜との試合では松井君と勝負はしない。どんな場面でも、全打席歩かせるぞ』と言った。でも、僕も含めてそれを意外だとは受け止めませんでした。実際、星稜の一回戦をスタンドで観戦しましたけど、松井君は同い年でも別世界にいる選手のように感じましたから。また、馬淵監督は『スタンドは騒然とした雰囲気になるだろう。だが、それに動揺してはならない』と言ったんです。だから、自分たちがしっかりしなければいけないという思いを強くしました」

自分に松井を抑えられる力があればという思い

 星稜高との試合が始まると、1回表二死三塁で松井を打席に迎え、河野は明らかなボール球を4つ続ける。ただ、すべての打席で歩かされることを知らない松井は、平然とした表情で一塁に歩く。次打者を打ち取り、明徳義塾高は最初のピンチを切り抜けた。

 2回裏に岡村の中前安打からスクイズで先制し、さらに二塁打で明徳義塾高が2点を先行すると、3回表の星稜高は一死二、三塁のチャンスを築いて松井に打順が回る。ここでも河野は松井を歩かせ、スクイズで1点を返されたものの、その裏にきっちりと1点を取り返す。

 ただ、5回表一死一塁、松井の第3打席も河野がボール球を投げ込むと、球場の雰囲気は一変する。岡村たちにとって、聖地は針の筵となり、感情的な視線や「勝負しろ」という声が圧しかかってくる。その凄まじさは「馬淵監督に言われ、僕らが覚悟していた限度を遥かに超えていた」と岡村は振り返るが、明徳義塾高の選手たちは何とか耐え抜き、9回表二死三塁でも松井を歩かせて3対2で白星を手にする。

 スタンドからは次々とメガホンなどが投げ込まれ、騒然とした球場を足早に去った。続く三回戦では広島工高に大量リードを許し、6回からリリーフ登板した岡村も2失点で0対8と完敗。岡村の高校野球は、甲子園のマウンドで幕を閉じた。

2021年から監督を務める岡村憲二は、昨夏の都市対抗で自身の初陣を白星で飾った。(写真提供/小学館グランドスラム)
2021年から監督を務める岡村憲二は、昨夏の都市対抗で自身の初陣を白星で飾った。(写真提供/小学館グランドスラム)

 河野とともに専修大へ進学した岡村は打者に専念し、パンチ力を磨き上げてプロのスカウトからも注目される打者に成長する。だが、ドラフト指名はなく、声をかけてくれた18社の中から明治生命(現・明治安田)を選ぶ。当時は都市対抗出場1回というチームだったが、「だからこそ、自分が都市対抗に出られるチームにしたい」という思いで飛び込んだ。

 岡村は期待通りの活躍を見せ、ドラフト指名が解禁となる2年目には、ある球団から指名を確約される。ところが、それは一方的に反故にされ、ならばチームを東京ドームへ連れて行こうと奮闘したが、厳しい都市対抗予選を勝ち抜くこともできない。

 毎日のようにチームメイトと汗を流し、試合になれば力一杯にバットを振る。けれど、相手の四番打者を敬遠してまで勝つ。そんな執念を抱いてプレーしていた瞬間があっただろうかと自問すれば、あの夏の自分とは、胸を張って再会できる自分ではなかった。一時は野球人生に幕を下ろそうとも考えたが、長男の誕生も転機にして土俵際で踏ん張り、2006年には24年ぶりの都市対抗出場を果たした。

 この頃、岡村は星稜高との試合を振り返ってこう言った。

「絶対に悪いことをしたとは思っていないし、時を経ても堂々と戦って勝ったと言えます。ただ、エースとして背番号1を与えられた僕がもっといいピッチャーだったら、松井君を抑えられるだけの力があるピッチャーだったら、馬淵監督もああいう戦術は考えなかったわけで……。星稜戦の僕たちに責められる部分があるとすれば、僕の力不足ということだけでしょうね」

 さらに、馬淵監督が決断した戦術の意味を考えながら続けた。

「これからの野球人生で自分は、あの夏の馬淵監督のように、教え子に勝利を味わわせてやろうと必死になれるだろうか」

 2010年限りで現役を退き、社業に専念した。無心で白球を追いかけた日々を忘れそうになるほど多忙を極めた時期もあったが、2021年春に監督として再びユニフォームに袖を通す。

 就任3年目の昨年、チーム初の東京第一代表で4年ぶりの都市対抗出場に導いた岡村監督は、「選手、スタッフ、応援していただいた皆さんのおかげです。私は幸せ者です」と東京ドームへ乗り込む。そして、西部ガスとの一回戦は0対1で9回表二死まで追い込まれるも、連続長打で追いつき、延長10回表に勝ち越して自身の初陣を勝利で飾った。さらに、真価を問われる今季も2年連続出場を決め、7月20日の午前10時開始の一回戦で、優勝候補の一角・ヤマハと激突する。

 18歳の夏に大きな経験をした指揮官は、50歳の夏にどんな野球を見せてくれるだろう。

野球ジャーナリスト

1965年、東京生まれ。立教大学卒業後、出版社勤務を経て、99年よりフリーランスに。社会人野球情報誌『グランドスラム』で日本代表や国際大会の取材を続けるほか、数多くの野球関連媒体での執筆活動および媒体の発行に携わる。“野球とともに生きる”がモットー。著書に、『落合戦記』『四番、ピッチャー、背番号1』『都市対抗野球に明日はあるか』『第1回選択希望選手』(すべてダイヤモンド社刊)など。

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