【光る君へ】藤原彰子の入内。一条天皇と藤原道長の駆け引きと思惑とは
大河ドラマ「光る君へ」では、とうとう藤原彰子(道長の娘)が一条天皇に入内した。そこに至るまでには、一条天皇と藤原道長の駆け引き、あるいは思惑があったと考えられるので、検討することにしよう。
藤原彰子が道長の娘として誕生したのは、永延2年(988)のことである。母は、源倫子。彰子が「裳着(もぎ)」の儀式を受けたのは、長保元年(999)2月のことだった。数え年で12歳である。
「裳着」とは、何か?裳着とは、公家の女性の成人式で、男性でいうところの元服に相当する。もともとは垂髪を結髪にするなどもしていたが、平安中期以降は吉日を選んで、裳を着ける儀式となった。
道長の日記『御堂関白記』には、彰子の「裳着」の儀式を詳しく記している。儀式に際しては、詮子(一条天皇の母)、藤原定子(一条天皇の中宮)らから祝いの品が届き、祝宴が催された。
その後、朝廷は彰子に従三位を与えた。これは、一条天皇が彰子の入内を受け入れる用意があったからだといわれている。ドラマの中で、道長と倫子は彰子の入内に難色を示したが、そうではなかったと考えられる。
道長は一条天皇の内覧になったものの、まだ彰子を入内させていなかった。すでに、一条天皇には、定子以外に入内した女性がいたのだから、むしろ焦っていたというのが実情だっただろう。
当時、一条天皇には、定子との間に脩子内親王を授かっていたが、いまだ後継者たる男子に恵まれていなかった。とはいえ、定子は長徳の変で髪を切ったので、出家したようにみなされていた。
一条天皇からすれば、入内した彰子との間に男子ができれば、道長との関係も良好になるだろうし、決して悪いことではなかった。一方で、一条天皇の定子に対する愛情は、海よりも深いものがあった。
定子は先例がない、出家した中宮だった。そこを無理をして、一条天皇は内裏に迎えていた。一条天皇には、仮に定子との間に男子が誕生すれば、また状況が変わるかもしれないという考えもあったかもしれない。
その思惑どおり定子は懐妊し、同年11月に敦康親王を産んだ。彰子が入内したのは、長保2年(1000)2月だった。彰子が中宮になったので、一帝二后になったのである。その後の展開は、改めて取り上げることにしよう。