【深読み「鎌倉殿の13人」】武田信義の嫡男・一条忠頼が源頼朝に誅殺された深い理由
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第17回では、突如として武田信義の嫡男・一条忠頼が源頼朝に誅殺された。この理由について、詳しく掘り下げてみよう。
■ライバルの処遇
現代社会においても、熾烈な競争を経て新社長が誕生したとき、ライバルとなった人物(ライバルに従った社員も)を冷遇することで、組織の引き締めを図ることがある。むろん、現代社会は法治国家なので、さすがに殺すことはない。
新社長の言い分としては、「適材適所の人事です」とでも言いそうだが、決してそんなことはない。ライバルに冷や飯を食わせることで見せしめとし、社員に自身への忠誠心を誓わせるようなものである。
源頼朝の場合も同じだろう。頼朝は後白河法皇によって東国の経営権を認められたが、依然として強大なライバルは存在した。上総広常は、その代表格である。
頼朝は広常を討つことで、自らへの求心力を高めようとした。『吾妻鏡』によると、のちに広常に謀反の意がなかったことを知った頼朝は、大いに後悔したというが、そこには作為すら感じる。
■一条忠頼の殺害
元暦元年(1184)6月16日、一条忠頼は突如として鎌倉で殺害された。酒宴に招かれたところ、天野遠景らに討たれたという。忠頼は甲斐源氏の武田信義の嫡男だった。忠頼が殺害された背景には、どのような事情があったのだろうか。
寿永3年(1183)1月、忠頼は木曽義仲を追討すべく、軍勢を率いて出陣していた。しかし、残念なことにその動向については詳しくわかっていない。
忠頼が殺害された理由については、『吾妻鏡』に「威勢を振ふの余りに、世を濫る志を挿む」と書かれているにすぎない。忠頼は威勢を振るい、頼朝への謀反を画策していたようだ。
■裏の事情を考える
養和元年(1181)、父の武田信義は後白河法皇から頼朝追討使に任じたという噂が流れた。頼朝はただちに信義を呼び出し、「子々孫々まで弓引くこと有るまじ」という起請文を書かせた。頼朝が信義に強い警戒心を抱いたのは、容易に察することができる。
信義の同族の安田義定は、頼朝から遠江守を与えられ、信義も駿河守になった。待遇面では厚遇されたはずだが、頼朝追討使の一件は尾を引いたのかもしれない。
忠頼殺害前の元暦元年(1184)6月5日、信義の保持していた駿河守は源広綱に与えられた。これにより、信義の地位が低下したのは疑いない。忠頼の殺害後、義定は信義追討のため、甲斐に出陣したというが(『延慶本平家物語』)、真偽は不明である。
頼朝が信義、忠頼の地位低下を画策して、信義から駿河守を取り上げて広綱に与え、忠頼に謀反の嫌疑を掛けて殺害した可能性はあろう。つまり、頼朝による信義の駿河守の解任、忠頼の殺害は、あらかじめ計画されていた可能性が高い。
■むすび
頼朝は強力なライバルが出現するたびに、その処遇を考えねばならなかった。ライバルがおとなしくしていれば問題ないが、そうでなければ殺さざるを得なかった。それは兄弟であっても同じだったのである。