【その後の鎌倉殿の13人】鎌倉幕府執権・北条泰時は飢饉の際、人身売買をなぜ容認したのか?
鎌倉時代を生きる人々を襲った寛喜の大飢饉(1231年)は、日本国の人口の3分の1が死に絶えたと言われるほどの凄まじい飢饉でした。飢饉に際会した人々の間には「人身売買」が横行します。朝廷は人身売買を禁止する原則を崩しませんでしたが、鎌倉幕府はそれを容認したのです。なぜか?餓死者が続出するという一大事に際して、それを食い止めるためです。つまり、人々が生きていけるようにするため、人身売買を認めたのでした。幕府のこの処置は、飢饉に対する一時的なもの。飢饉が終息すると、幕府は人身売買を禁止する命令を発令しています(1239年)。朝廷からも、幕府に対して、人身売買を禁止せよとの申し入れがありました。
飢饉が終わると、飢饉当時に安値で売却した妻子などを取り戻そうとする動きが起こります。そうした訴えが幕府になされることになるのです。売主と買主との間で揉め事も発生していたと思われます。幕府はそうした訴えにどう対処したのか。延応元年(1239)4月17日の「追加法」によると「売主が飢饉当時の値段で買い戻すことは認められない」としています。ただし「売主と買主が合意の上で、現在の価値に換算して買い戻すことは問題ない」とも付記しているのです。飢饉の際に人身売買を禁止することはかえって民衆のためにならない、民衆の嘆くところとなる。そうした観点から、幕府は人身売買を認めていたのです。飢饉に喘ぐ民衆を救いたいという幕府執権・北条泰時の想いがそこに反映されていたと思われます。