『孫子』の兵法で京都六波羅を包囲した後醍醐天皇方の軍勢 敵軍を完全包囲しなかったのはなぜか?
集英社の『週刊少年ジャンプ』に連載されている漫画「逃げ上手の若君」が2024年7月から9月まで、アニメとして放送されていました。「逃げ上手の若君」の主人公は、南北朝時代の武将・北条時行(鎌倉幕府第14代執権・北条高時の子。幼名は亀寿)です。
元弘3年(1333)5月、鎌倉幕府に叛旗を翻した足利高氏(尊氏)は、都に攻め入り、幕府(六波羅探題方)の軍勢と戦をします。高氏に呼応し、播磨国の豪族・赤松円心の軍勢3千余騎も幕府方に攻勢をかけました。奮戦する赤松方の武士たち。東寺や西八条などに控えていた六波羅方の軍勢1万余騎(『太平記』)は、一手になって赤松軍に襲いかかります。赤松方の妻鹿氏や武部氏も、今にも討たれてしまうというような状況でした。
しかし、赤松方の佐用兵庫助・得平源太・別所六郎左衛門・別所五郎左衛門らは六波羅軍を迎撃し、脇目も振らず懸命に戦います。また「彼らを討たすな」ということで、赤松円心・その嫡男範資、次男貞範、三男則祐、真島・上月・菅家・衣笠氏の軍勢3千余騎は、一斉に抜刀し六波羅軍に打ちかかるのでした。これによって、さすがの六波羅勢(1万余騎)も散々に打ち負かされます。そして七条河原へ追い出されるのでした。
勝ちに乗った官軍方は、六波羅を包囲します。だが「東の一方」はわざと軍勢を置かずに、六波羅方が逃げられるようになっていたのです。これはなぜだったのか。敵方を完全包囲すれば、敵は最早これまでということで死に物狂いで立ち向かってくる可能性があります。ところが包囲に穴があれば、そこから逃げることができるということで敵の精神は弛緩、敵勢は崩れ去る。そうしたことを見越して、官軍はわざと「東の一方」には軍勢を置かなかったのです。この戦法は著名な中国の兵法書『孫子』(軍争篇)にも「兵を用うるの法」として記載されています。