【深読み「鎌倉殿の13人」】北条政子と亀の壮絶バトル。髻を切るのは最大の恥辱だった
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」12回目では、北条政子と亀の壮絶なバトルが繰り広げられた。その際、実際に亀の家を襲撃した牧宗親が髻を切られていたが、この意味を深く掘り下げてみよう。
■ドラマの復習
最初に、大河ドラマの内容を確認しておこう。源頼朝と亀が密会していたことを北条政子に漏らしたのは、牧の方(ドラマでは「りく」であるが、以下、「牧の方」で統一する)だった。牧の方は政子を支援するため、兄の牧宗親に「うわなりうち」をしてほしいと依頼した。「うわなりうち」については、こちら。
宗親は手下を従えて、亀の住む屋敷を「少しだけ壊せ」と命じた。そこに居合わせたのが源義経である。義経は宗親を止める役だったが、進んで協力してしまった。配下の弁慶に対して、「派手に家を壊せ」と命じたので、亀の屋敷は悲惨なことになった。
なお、一連の亀の屋敷の破却に際して、義経や弁慶が関与したとの記録はない。あくまで、創作にすぎないことに注意すべきだろう。
事件後、頼朝は宗親が実行部隊だったことに激怒する。そして、罰として宗親の髻を切ってしまった。当時、髻を切ることは、武士にとって最大の恥辱だった。縁者の北条時政も怒ってしまい、伊豆に引っ込むと言ったほどだ。
では、髻を切るのが、なぜ武士にとって最大の恥辱なのかを考えてみよう。
■最大の恥辱の理由
髻は髪を結い上げて、烏帽子や冠を頭に留めるためのものだった。当時、子供は垂髪(おかっぱ頭)だったが、元服(成人)すると髻を結うのが倣いだった。つまり、髻は大人の証である。
牛飼い童や堂童子は、大人になってもおかっぱ頭のままだった。また、出家する場合は、頭を剃るのが習わしである。たかがヘアスタイルとはいえ、男子にとって髻は重要な意味を持ったのだ。
したがって、おかっぱ頭=子供、丸刈り=僧侶、髻=成人男性ということになるので、理由もないのに髻を切られることは最大の恥辱だったのである。
嘉応2年(1170)、摂政の松殿基房は、鷹狩りから帰る平資盛(清盛の孫)の一行に遭遇した。しかし、資盛は基房に下馬の礼を取らなかったので、基房の従者は資盛らに恥辱を与えた。
後日、その話を聞いた清盛(実際は重盛)が怒り狂い、基房の一行を襲撃し、従者の髻をことごとく切り落としたといわれている(『平家物語』)。考えようによっては、髻を切る行為は、死の次の罰だったかもしれない。
■むすび
宗親のその後は不明であるが、きっと髻が結えるようになるまでは、外出できなかったに違いない。髻を切るという行為は、それほどの屈辱を与えたのである。縁者がそれほどの酷い仕打ちを受けたので、時政も立腹したのだ。