レッドソックスの背番号「19」。上原浩治、JBJ、澤村拓一の前には、マダックスの兄や諜報部員も
メジャーデビュー前に、澤村拓一(ボストン・レッドソックス)の背番号が変わった。それまでは「22」を背負ってスプリング・トレーニングに参加していたが、ここからは「19」となる。
昨シーズンまで、レッドソックスの背番号「19」は、ジャッキー・ブラッドリーJr.のものだった。今オフ、JBJはFAになったものの、3月に入っても球団が決まらず、わずかとはいえ、レッドソックスに戻ってくる可能性もあった。けれども、先日、JBJはミルウォーキー・ブルワーズと2年2400万ドルの契約を交わした。
JBJの前にレッドソックスで背番号「19」のユニフォームを着たのは、上原浩治だ。直近の3人は、上原(2013~16年)、JBJ(2017~20年)、澤村(2021年~)となる。2013年にデビューしたJBJは、「44」と「25」を経て、上原の退団後に「19」とした。
上原とJBJだけでなく、2000年以降の背番号「19」は、なかなかの顔ぶれが並ぶ。2人以外の6人は、ローランド・アローホ(2000年)、ダンテ・ビシェット(2000~01年)、ジョン・バーケット(2002~03年)、ゲーブ・キャプラー(2004年)、ジョン・オルルード(2005年)、ジョシュ・ベケット(2006~12年)だ。
アローホは、タンパベイ・デビルレイズの初代エース。亡命前には、キューバ代表として、1992年のバルセロナ五輪で金メダルを獲得した。ビシェットは、1995年にコロラド・ロッキーズで本塁打王&打点王。息子のボー・ビシェットは、トロント・ブルージェイズの遊撃手だ。バーケットは、1993年にサンフランシスコ・ジャイアンツでリーグ最多タイの22勝。この年のバーケットとビル・スイフト(21勝)を最後に、ジャイアンツの20勝投手は途絶えている。キャプラーは、現ジャイアンツ監督。2005年は、読売ジャイアンツとレッドソックスでプレーした。オルルードは、1993年にトロント・ブルージェイズで首位打者(とリーグ最多の二塁打54本)。一塁を守り、シアトル・マリナーズ時代に3度、ゴールドグラブに選ばれた。ベケットは、2003年にフロリダ・マーリンズでワールドシリーズMVP。レッドソックスでも、ベケットは2007年にリーグ最多の20勝を挙げ、この年のリーグ・チャンピオンシップ・シリーズでMVPを受賞した。
さらに時代を遡ると、レッドソックスの背番号「19」には、グレッグ・マダックスの兄であるマイク・マダックス(1995~96年)や、1953年に毎日オリオンズで投げたレオ・カイリー(1954~56年)に、諜報部員だったモー・バーグ(1935年)もいる。1934年に日米野球で来日した時にバーグが撮影した東京の映像は、後に空襲を行う際の情報となった。
ただ、レッドソックス最高の背番号「19」を一人挙げるとすれば、他の選手には申し訳ないが、フレッド・リン(1974~80年)だろう。新人王とMVPの同年受賞は、2001年にイチローがそうなるまで、1975年のリンしかいなかった(今も2人だけ)。この年と1979年は、二塁打40本以上と出塁率.400以上(1979年は39本塁打&首位打者)。今日のスタッツからすると、この2シーズンのOPS.967と1.059は、どちらもリーグ・トップだ。センターの守備では、1975年と1978~80年にゴールドグラブを受賞。まさに、5ツール・プレーヤーだった。
なお、JBJがブルワーズで背負うのは「41」だ。レッドソックス時代の「44」と「25」と「19」のうち、ブルワーズでは、「44」と「19」が、それぞれ、ハンク・アーロンとロビン・ヨーントの永久欠番。残る「25」は、昨シーズンからブレット・アンダーソンが使用している。
背番号「41」の理由について、JBJはツイッターに「19 + 17 + 2 + 3 =」に書き込み、「誰かわかるかな」と問いかけている。ヒントは「ファミリー」だという。
正解かどうかは定かではないが、自分で考えてみたい人は、ここから下は読まないように。
どうやら、それぞれの数字は、JBJと妻、娘と息子の誕生日らしい。JBJは、1990年4月19日に生まれた。