おかえりなさい!狩野恵輔選手!!
■今季初昇格で一発回答
「しびれたねぇ〜」。試合後、開口一番こう言った狩野恵輔選手。1軍昇格即スタメンで、今季1号2ランを含む3安打4打点の大活躍だ。スタメン発表の時、初回の守備についた時、打席に入った時、そして打った後。甲子園球場はものすごい拍手と歓声で地鳴りが起こったようだった。タイガースファンはひたすら待っていたのだ、狩野選手が選手が甲子園に帰ってくるのを。
残念ながら九回表に激しく降った雨のせいでヒーローインタビューは行われなかったが、「ボクの場合、ヒーローインタビューの次の日に腰を痛めたので(笑)」と、狩野選手は逆に過去の“負のジンクス”を笑いで吹き飛ばした。
新井良太選手の故障による抹消で、突如やってきたチャンス。いきなりのスタメンに「やるだけです!ファームで鍛えられてきたんで。出るからには必死でやりたい」と意気込んで臨んだ。
プレイボール直後に先頭打者の打球が飛んできた。「捕りにいきました。あれでだいぶ気持ち的に落ち着いたかなと」。これが“狩野祭り”の始まりだった。
第1打席は追い込まれながらライトへ初ヒットを飛ばし、上本選手のタイムリーで2点目のホームを踏んだ。第2打席は二死二塁で迎えた。「1打席目、追い込まれていたので、もうちょっと思いきっていければ。点差もあったし」と初球をレフトスタンドへ運んだ。そして二死二、三塁からの第3打席。打球はレフト線へ落ち、2人のランナーをホームへ迎え入れた。
「去年の最終打席でゲッツーだった」。その翌日、抹消となった狩野選手は、朝から鳴尾浜にいた。アップの前、チームメイトの前で努めて明るく、自身の屈辱を自虐ネタにして笑いをとっていた。けれど心中は全く違っていた。ずっと持ち続けていたあの日の悔しさを、今日ようやく晴らすことができた。
■最愛の家族の前で
この活躍を、最も見て欲しい人たちが見ていてくれた。夏休みで群馬の実家に遊びに行っていた長男を昨日、ご両親が車で送って来てくれていた。ご両親は鳴尾浜で狩野選手の試合を見て、群馬に帰るつもりだった。ところが昨夜、「1軍に上がることになった。最後かもしれないから見に来て」と告げられた。嬉しい反面、息子の覚悟を感じ取った。
「相当、気合い入ってましたね」という狩野選手を見送ったあと、ご両親は3人の孫たちと甲子園に向かった。「子供たちも物心ついてからちゃんと父親の野球を見たのは初めてで、それがホームランも打ったもんだから、喜んじゃってねぇ」。そう話すお父さんの宏治さんの声も弾んでいた。
毎年、帰省する度、「今年でもう終わりかも」と言う息子に、ご両親はプロ野球界の厳しさを痛感せずにいられなかった。それでも、たくさんの喜びを味わわせてくれた。
開幕スタメンマスクを勝ち取った2009年は、京セラドームの開幕戦に駆けつけた。息子は入団する時、父には『苦楽』、母には『挑戦』と色紙にしたためて手渡した。それから9年の歳月が流れ、ようやく一人前の姿を見せてくれた息子に、父は同じく色紙に返事を書いて持参した。『苦しんで9年、楽しんで9年。赤城おろしが味方して、輝け背番号99』。その年、父の願いどおり狩野選手は輝いた。プロ入り最多の127試合に出場し、正捕手の座にもすぐ手が届くかと思われた。
■幾多の苦労を乗り越えて
けれど、そうはいかなかった。城島選手の加入や腰を痛めたことで、捕手としての出場は2011年が最後となってしまった。度重なる腰痛の影響で出場自体も年々減っていき、育成契約になった年もあった。
しかし狩野選手は決して諦めなかった。腰のケアはもちろんのこと、バッティングフォームも腰に負担がかからないようにと研究し、「人から見てもわからないけど、ほんのちょっと微妙な違い。腰を回転させないわけでもなく足を使わないでもない。でも回転させ過ぎない、使い過ぎない。ほんのちょっとの意識で、腰の負担を軽減する。やってるうちに編み出した」と、答えを見つけた。また、自分のことだけでなく、ファームでは後輩たちに対して惜しみなくアドバイスもした。
そんな狩野選手を、野球の神様は見ていたに違いない。大きなご褒美をくれた。「神様、いるなと感じました」。狩野選手も見えない力に感謝した。
でもこれで終わりじゃない。「首位と僅差で戦っている中で呼ばれて、使ってもらって、結果で応えたかった。これからもしっかり結果を出していきたい」。
逆転優勝へ向けて、欠かせない選手が戻ってきた。