卒業式の練習 必要か? 子どもと教員の負担軽減に向けて 見えぬ実態に迫る
■卒業式本番までの日々
全国の学校では卒業式も終わり、今年度も残すところあと数日となった。
3月の卒業式は、最高学年の子どもと担任にとって、一年のなかでもっとも重要な行事である。
「重要」というのは、単純に学業の「節目」としてだけではない。「練習の成果を披露する場」としても重要である。卒業生はもちろんのこと在校生も含めて、すべての子どもが卒業式本番に向けて日々練習を重ねていく。その成果が保護者や来賓に披露されるのだ。
さてこの卒業式の練習、「しんどかった」という思い出をもつ読者も多いことだろう。
「呼びかけ」や歌(式歌、校歌、国家)にくわえて、起立・礼・着席の所作まで、さまざまな練習が積み重ねられていく。卒業式当日の感動によってそれまでの苦労は洗い流されるかもしれないが、しかしながら、はたして卒業式にはそれほどの練習が必要なのだろうか。
■統率のゆるい式典の数々
見事なまでに身体の動きが統率され、見事なまでに歌声が響き合う。
どうにもそれは、式典というよりも、その場にいる保護者や来賓向けのショーのようにも見えてくる。
考えてもみれば一般に、結婚式、葬式、追悼式典、記念式典など、さまざまな式典は、ほぼ練習なしでおこなわれる。参加者の動きは不揃いであるし、歌もそれほど合っているわけでもない。だけれども参加者は、皆で一つの思いを共有し、そこに集っていることの意味を噛みしめ、ときに涙することもある。
学校の式典に関していうと、卒業式に比べて入学式の空気はわりとゆるい。そもそも主役である新入生には、時間的な余裕がなく、練習ができない。それでも、一つの通過儀礼として式典は成り立っている。
いくら事前に時間が確保できうるからといって、卒業式においてそこまで練習にこだわる必要があるのか。卒業式という通過儀礼は大切であるとしても、事前の徹底した練習は不要であるように思える。
■「学校の働き方改革」から卒業式を考える
ここまでの議論は、練習させられる子どもの目線からであった。練習がしんどかったという思い出はあちこちで語られているし、ネット上でも多くの記事を見つけることができる。
だが本記事では、従来の子ども側の視点にくわえて新しい視点として、今日における学校の働き方改革の文脈から、卒業式の練習量を問題視したい。すなわち、事前の練習量や本番の式次第を大幅に簡略化することで、年度末における教員の業務負担を削減できるのではないか、という提案である。
私が知る限り、卒業式の練習は、小学校でもっとも徹底されている。そして、中学校、高校と学校段階があがるにつれて、練習量は少なくなっていくようである。それでも小中高を問わず卒業式は、緊急事態を除けば必ず実施されていると言ってよい。
■学習指導要領における卒業式の位置づけ
小学校や中学校の学習指導要領(2017年3月公示)では、国語や社会などの「各教科」にならんで「特別活動」が設けられている。そこで「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導する」という文言は確認できるが、「卒業式」が何事かについては記載がない。
学習指導要領の「解説」にまで掘り下げていくと、「特別活動」として「学校行事」があり、その一つに「儀式的行事」があげられている。さらに「儀式的行事は、全校の児童及び教職員が一堂に会して行う教育活動であり、その内容には、入学式、卒業式、始業式、終業式、修了式、開校記念に関する儀式、教職員の着任式・離任式、新入生との対面式、朝会などが考えられる」として、「卒業式」が位置づけられている(なお文部科学省の見解では、「学習指導要領」は法的拘束力をもつものの、その「解説」には法的拘束力はない)。
■卒業証書の授与は義務
このように書くと、ともすると文部科学省は卒業式をやや軽視しているように思えるかもしれない。だが卒業においてもっとも重要なことは、卒業生に卒業証書を授与することであり、それは法的に校長の義務とされている点を強調しておきたい。
学校教育法施行規則(昭和22年文部省令第11号)の第58条には、「校長は、小学校の全課程を修了したと認めた者には、卒業証書を授与しなければならない」と規定されている。
また第79条には「第41条から第49条まで、第50条第2項、第54条から第68条までの規定は、中学校に準用する」、第104条第1項には「第43条から第49条まで(第46条を除く。)、第54条、第57条から第71条まで(第69条を除く。)の規定は、高等学校に準用する」、第173条には「第五十八条の規定は、大学に準用する」とある。
すなわち小学校、中学校、高校、大学といずれの学校段階においても、卒業証書を授与することが省令で定められているのである。
■多すぎる練習時間
いかなる形式をとろうとも、とにかく卒業生に卒業証書を授与することだけは必須である。儀式的行事として卒業式を実施する場合には、何よりも卒業証書の授与を主たる目的として、式を運営していくべきである。
卒業式は最低限、卒業証書の授与が粛々とおこなわれればよい。式歌などを歌ったり、「呼びかけ」をしたり、起立・礼・着席を皆で合わせたりすることは付加的なことであり、そこに業務削減の可能性が見える。
公立小学校の教諭でブログ「学校の働き方改革 10の提言と50の具体策」を運営している能澤英樹氏は、「卒業式にかかる時間を適正化する」と題する記事で、卒業式とその練習に要する時間数を問題視している。
能澤氏の主張によると、「卒業式自体に1.5〜2コマ、事前の練習に2コマ〜10数コマ。『10数コマ』というのは、『3月に入って毎日のように1コマ、全校での練習がある』という声をもとに推定しました。中には授業コマを使わずに1時限目の前や2時限目と3時限目の間の長い休憩時間を、練習時間に充てている学校もあります」という。
■「感動」で厳しい練習が報われる
また、福岡教育大学の講師である兼安章子氏は、X県下の49校の公立小学校を対象とした調査において、「儀式的行事のうち多くの学校が卒業式に多くの時間を割いている。練習を含め10時間以上の時間を確保している学校もあり」と述べている[注]。
先の能澤氏は、多すぎる練習時間について、「小学校では、卒業式に過剰な重みづけをしがちで、多忙の根源が潜んでいる」と指摘する。
多忙ならばすぐにでも練習を減らせばよいのだけれども、先述したとおり保護者や来賓の目線を過剰に意識すると、なかなかそうもできない。さらに、この練習の多さが本番の「感動」に接合するかたちで、教員自身がそこにハマっているとも考えられる。
立教大学教授の有本真紀氏は、『卒業式の歴史学』(講談社、2013年)において、卒業式が「涙」をともなう儀式と化していった歴史的経過を追う。
有本氏によると卒業式が感動の場面となるには、「長い時間経過が不可欠」(228頁)である。そこでいう「長い時間経過」とは式当日の経過を主に指しているが、それは式当日を超えた数週間にわたる準備と練習の時間にも当てはまるだろう。
たくさんの準備と練習の積み重ねは、その集大成たる式当日の重みを増大させ、式の緊張感と落涙の発現可能性を否応なく高めていく。こうして「感動」の式典が成立(成功)し、それが多大な練習量を正当化する。「感動」をひとたび味わうと、そこから抜け出るのはなかなか難しい。
■学校行事の年間時数は定められていない
式の練習時間については、単に多いことだけでなく、それが他の授業に影響を与えていることにも言及しなければならない。
学校教育法施行規則には、学習指導要領に記載されている教育内容について、その年間の標準授業時数が示されている。たとえば、2017年3月公示の小学校の学習指導要領では、6年生の場合、国語175時間、社会105時間、算数175時間…である(授業時数の1単位時間は45分)。
そして「特別活動」には年間で35時間が割り当てられている。ただしそこでカウントされるのは、「学級活動」のみである。長期休業期間を除く年間35週において、学級活動を毎週1時間おこなえば35時間を満たす。
一方で「特別活動の授業のうち、児童会活動、クラブ活動及び学校行事については、それらの内容に応じ、年間、学期ごと、月ごとなどに適切な授業時数を充てるものとする」(小学校学習指導要領)と定められており、行事本番とその練習においてどれくらいの時間をかけるかは、学校の裁量にゆだねられている。
■教科の時間を削って卒業式の練習!?
この目安がないという状況は、学校の裁量を保障する一方で、結果的に「何でもあり」の事態を導くことにもなりうる。
卒業式をはじめ学校行事が「総合的な学習の時間」や「学級活動」に読み替えられることは頻繁にある。さらには、「教科」指導の代わりとされることもある。
教科に関していうと、たとえば卒業式の歌の練習は「音楽科」の授業に読み替えられたり、呼びかけ(卒業生や在校生が一言ずつメッセージを発する)の準備・練習は「国語科」に読み替えられたりする。これであらかじめ決められている各教科の標準授業時数を満たすことができるというわけだ。とりわけ小学校の場合、ほぼ全教科を一人の担任が受け持っているため、卒業式の練習等を教科指導に読み替えることは、それほど難しいことではない。
■見えにくい読み替え
しかしながら音楽科や国語科をはじめとする各教科の授業時数は、卒業式のために用意されているわけではない。教科書に即した内容を指導するために用意されたものである。各教科ではそれぞれに固有のやるべきことがあらかじめ定められているのであり、上記の読み替えは、学校行事(卒業式)が教科を侵食しているようにも映る。
見方によっては、こうした読み替えは、合理的な方法であるといえるかもしれない。だが読み替えが常態化しているとするならば、標準授業時数そのもののあり方にまで踏み込んで、見直しを進めたほうがよいだろう。
いずれにしても、時数の読み替えは、外部からはかなり見えにくい。
「行事を教科の中で実施したりするなど、無理をしている」(薩摩川内市教育委員会)といった表現で、読み替えが公的に論じられることは珍しい。読み替えはほとんどが教員個人あるいは学校内部で、水面下でおこなわれている。調査データも見当たらない。その意味で、卒業式の練習過多の問題を論じるには、まずは実態把握が必要である。
■教育的意義があったとしても…
以上が、卒業式の練習に関する問題提起である。
卒業式の過剰な練習は、ときに授業時数の読み替えを伴いつつ見えにくいかたちで、かつ参加者の感動によって正当化されながら、成り立っている。
学校の教員がいまほどには多忙ではなかった時代であれば、練習に時間を費やし、感極まる卒業式を演出することに、大きな支障はなかったかもしれない。だがいまや、公立小学校で約3割、公立中学校で約6割の教員が、過労死ラインを超えて働いている状況である。
私個人は教員の働き方のことを抜きにしても、子どもにそれほど練習させることなく、簡略な式典で十分だと思っている。だが教員の働き方の観点からも、練習の量を劇的に減らすことが重要であると考える。卒業証書の授与だけでも、式典としては十分に意義があるはずだ。
なお卒業式には、事前練習以外にも、教員の労働時間を増大させているものがある。学級の思い出を詰めた記念DVDのプレゼント、黒板アートの作成、式場の飾り付けなどにも、多くの教員が真剣に取り組んでいる。小学校では卒業式の前に、6年生を送る会が企画されている場合には、さらに仕事量は増える。これらの諸課題については、別稿にて論じていきたい。
卒業式やその練習に費やされる多くの時間に仮に教育的意義があったとしても、その活動をあきらめる勇気が必要である。
- 注:兼安章子、2018、「年間計画における学校行事の位置づけの検討:小中一貫及び連携校における学校行事に着目して」『教育経営学研究紀要』(九州大学大学院人間環境学府教育経営学研究室/教育法制論研究室)、第20巻、pp. 89-95.→論文ダウンロード