豊臣秀吉が織田信長のことを良将でないと考えた理由を検証する
今は評価の時代である。新年度を迎え、昇進・昇格した人もいるだろうが、厳しい人事評価を経て決定されることが多いだろう。
ところで、豊臣秀吉が織田信長を評価した逸話が残っているが、それがどういうものなのか、詳しく検証することにしよう。
秀吉の評価によると、「信長は勇将であるが、良将ではない」という。むろん、それには理由があった。
信長は剛により柔に勝つことを知っていたが、柔が剛を制することを知らなかったというのである。信長はひとたび敵対した勢力に対しては、その怒りが決して収まることなく、徹底して殲滅しようとした。
その結果、信長は降伏する者をすべて殺戮したので、戦いが絶えることがなかった。つまり、信長の人物の器量が狭いことが、人から敬遠される原因だったという。
そういうことだったので、明智光秀は信長に対して謀反を起こしたのだと、秀吉は述べたのである。これは『名将言行録』に書かれた話である。
以上の話は、現在、私たちが知る信長のイメージを投影したものである。たとえば、比叡山を焼き討ちにした際、信長は容赦なく僧侶らを殺害した。
また、越前一向一揆でも一揆勢を徹底して殲滅したので、残ったのは遺体の山だけだった。反旗を翻した荒木村重の与党(家臣や妻女)も、捕らえられ皆殺しにされた。類例を挙げると、キリがないだろう。
しかし、信長が残酷であるという評価は、決して正しいとはいえないだろう。たとえば、信長は大坂本願寺と10年にわたる抗争を繰り広げたが、途中で和睦の打診を受け入れた。それを破ったのは、大坂本願寺のほうだった。つまり、信長の敵に対する対応は、ケース・バイ・ケースだったのである。
一方で、『名将言行録』は秀吉について、敵対する者は討ったが、降参すれば家臣同様に扱ったという。それゆえ、昨日まで敵だった者も、秀吉のために命をかけて仕えた。それゆえ、秀吉に反旗を翻す者はなく、早く天下を統一できたと結んでいる。
ところが、こちらも決して正しいとは言えない。小田原北条氏は秀吉に降参したが、改易という厳しい処分を受けた。類例を挙げるとキリがない。
『名将言行録』は後世に成った逸話集で、しかも名将の心掛けを説いた教訓集である。したがって、その内容は決して正しいとは言えず、秀吉による信長に対する評価も同じなのである。