穴山梅雪と滅敬は、同一人物だったのか!? そんなわけない
今回の「どうする家康」でも、滅敬が瀬名のもとを訪れていた。そして、滅敬は武田勝頼の重臣・穴山梅雪と同一人物だった。それが事実なのか考えてみよう。
以前からたびたび瀬名のもとに訪れていたのが、滅敬なる人物である。滅敬がいかなる人物なのか考えてみよう。滅敬に関しては、信頼できる良質な史料に登場するわけではない。最初は、『改正三河後風土記』で確認することにしよう。
瀬名が夫の徳川家康に処分される前、病で伏せていることがあった。そのとき、甲斐国から三河国にやって来た滅敬という唐人の医師がおり、名医として知られていた。瀬名は子の松平信康に滅敬の診察を受けたいと頼んで、これが実現した。
瀬名が滅敬の調合した薬を飲んだところ、たちまち回復に向かった。そして、常に身辺に置いたというのである。瀬名は滅敬を通して、勝頼に武田方に与することを密かに伝えたが、滅敬が武田方の家臣であるとは書いていない。あくまで仲介役である。
一方の穴山梅雪は武田氏の重臣で、御一門衆に加えられていた。武田二十四将の一人でもある。なお、実名の信君はかつて「のぶきみ」と読まれていたが、近年の研究により「のぶただ」が正しいと指摘されている。出家して梅雪と名乗ったのは、天正8年(1580)のことである。
大河ドラマの中では、梅雪が滅敬なる人物に変装し、瀬名と面会したことになっていた。甲斐国の口寄せ巫女が同席していたのは、『岡崎東泉記』の記述によるものだろう。同書には、唐人の医師として「西慶」なる人物も登場する。滅敬=西慶なのか不明である。
では、滅敬=梅雪なのかと言えば、根拠となる史料がないので、何とも言えない。そもそも『改正三河後風土記』は二次史料なので、滅敬の件が正しいのか否かも確証がないのである。滅敬が唐人の医師というのは、何か意図があるのだろうか。
常識的に考えると、梅雪ほどの重臣がわざわざ変装して、瀬名のもとに行くはずがない。あまりにリスクが大きすぎる。どっちにしても、滅敬と梅雪の関係は不明なのだが、ドラマの設定とはいえ、難があるように思える。