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麺処・盛岡で45年続いた老舗「柳家」本店の閉店に、コロナに負けないラーメンへの情熱をみた

井手隊長ラーメンライター/ミュージシャン
盛岡のソウルフードとして一世を風靡した「柳家」の「キムチ納豆ラーメン」

10月初旬、岩手県盛岡市で45年愛された老舗ラーメン店「柳家」本店が閉店するというニュースが飛び込んできた。看板メニューである「キムチ納豆ラーメン」は押しも押されもせぬ盛岡のソウルフードとして人気を博し、初代店主の大信田和一さん(79、現会長)が気合を込めてラーメンを作る姿は、街のシンボル的な存在だった。

閉店の背景には新型コロナウイルスの存在があったという。名店の閉店を惜しみながら「柳家」本店に取材に向かった筆者を待っていたのは、打ちひしがれることなく、ラーメンへの衰えぬ情熱を糧に、再起をはかる男の姿だった。

当初はラーメン店ではなかった柳家

柳家本店
柳家本店

「柳家」は、もともとラーメン店ではなく、岩手県稗貫郡の大迫町(現在の花巻市)で、手打ちの生そばが人気の食堂として営業していた。ただ、大迫町は宿場町として栄えていた町ではあったが、和一さんは過疎化でこれから人口が減っていくことを危惧し、岩手の中心である盛岡への移転を決意。盛岡市大通で当時一番路線価が高かったという大通商店街にある「さわや書店」の3階で、手打ちそば屋として1975年に営業を再開させた。

「親からは『大迫から出るなんてそんなバカな話はあるか』と怒鳴られましたが、家族を幸せにするために盛岡に出てきたんです」(和一さん)

場所は「さわや書店本店」の3階
場所は「さわや書店本店」の3階

「2階以上の飲食店は繁盛しない」という声を尻目に、さわや書店に1日3000人来店するならその10%の300人は来るだろうという算段で、強行的に開店を決めた。しかし、その目論見が裏目に出て、オープン後の客足は伸び悩んだ。その上、看板商品の日本そばは、全く売れなかった。

そんな数少ないお客さんを相手にする苦しい中、思わぬメニューから光明が見えた。

和一さんが10代の頃、盛岡駅前の仕出し屋で丁稚奉公をしていた当時に、店のご主人に作ってもらった納豆汁。現在から60年以上前に和一さんの心を動かした、その味を思い出してラーメンにアレンジした、「納豆ラーメン」だ。

一見シンプルなアレンジに見える、この納豆ラーメンが売れた。納豆ラーメンを食べた新聞記者が記事にしたことで、大きな話題にもなった。それまでは毎月の家賃を滞納するほどギリギリの状態だったという。

そして「柳家本店」開店から8年後。和一さんは日本そばの提供をやめ、ラーメン専門店へとのれんを掛け替えることを決意するに至る。

思わぬ組み合わせから生まれた、看板「キムチ納豆ラーメン」

ある日、女将である妻・良子さんがまかないで納豆ラーメンを食べていた時、香の物としてかたわらに置いていたキムチをラーメンに入れてみると、その相性が抜群であることに気づく。それが「柳家」の屋台骨を支える人気メニュー「キムチ納豆ラーメン」誕生の瞬間だった。

キムチ納豆ラーメン
キムチ納豆ラーメン

「大豆の甘みというのは何物にも代えがたい味で、それは開店当時も今も変わりません。当時は『こんなのラーメンじゃない』とバッシングされましたが自然にこれがみんなの味になっていったんです。私の味というだけでなく、お客さんに支えられた味なんです。明日死んでも悔いはないという気持ちで毎日作ってきました」(和一さん)

また、近所のラーメン店と張り合うのではなく、独自の味とネーミングのものを出せば、周りと比べられることはないというのが和一さんのポリシー。「キムチ納豆ラーメン」はまさにその代表格であり、その中毒性の高さもあって、店へ通う常連のお客さんの数も日に日に増えていった。3階までお客を呼ぶために和一さんが「いらっしゃいませー!」と大声を張り上げるのも有名になった。

初代店主・大信田和一さんは79歳
初代店主・大信田和一さんは79歳

麺料理のさかんな盛岡では、寒い土地でも作りやすいそばを椀で食べる「わんこそば」、満州のメニューをアレンジした「盛岡じゃじゃ麺」、朝鮮から伝わった「盛岡冷麺」が盛岡三大麺として有名。

一方、盛岡のラーメンといえば、昭和の初めから「中河」「たかみ屋」「日光軒」(閉店)などに代表される醤油ラーメンが人気だった。とはいえ、醤油ラーメンが全国的には珍しいものではない中で「柳家」のキムチ納豆ラーメンが目立った存在として頭角を現してきたのだ。

80年代には「キッチンあべ」のカツカレー、「とんかつ熊さん」のスタミナ味噌ラーメンとともに盛岡のソウルフードとして人気は頂点に達する。

「柳家」のキムチ納豆ラーメンはその製法自体が複雑であるわけではない。それは、「柳家」がもともとラーメン店ではなく、そば屋の1メニューとしてラーメンを始めたところに端を発する。日本そばをやりながらでも作れるレシピだったのだ。和一さんの二男である現社長・大信田和彦さん(46)は語る。

「『柳家』のラーメンはしっかり作り方を覚えれば誰でも作れますし、夜中にスープをかき混ぜ続けるような工程もなく、スタッフの労働時間も適切に保つことが可能です。そうすることで店を長く“続ける”ことができますよね。こういう店は長く続けていくことこそが大きな価値だと思っています。

『柳家』のラーメンを食べたいというのはもちろん、『オヤジさんに会いたい』と思って来てくれる人がたくさんいるんです。それは親父のお客さんを喜ばせたいという強い気持ちと、今までの経験と苦労の結晶で成したものだと思うんです」(和彦さん)

厨房に立つ初代店主・和一さん
厨房に立つ初代店主・和一さん

和一さんは、「誰が食べても美味しいというものを追いかけるよりも、10人食べたら1人が強烈に美味しいと思うものを作るべきだ」と言っていたという。「キムチ」と「納豆」という、敬遠する人も多い食材を合わせたことで強烈なファンを生んだのだ。ラーメンの流行は時代に合わせて変わる中、「トレンドを見ないで自分の道を突き進むことの大切さを知った」と和彦さんは言う。

さらに、地元のお客さんをもてなすには地元の食材を使うべきだと、2008年からは小麦の自家栽培に取り組んでいる。故郷である大迫町と紫波町に農園を持ち、合計12haで「ゆきちから」を栽培し、オリジナルの小麦粉「○ッ粉(わっこ)」として製麺に使用している。納豆も岩手県産だ。

「商売人として最後の舞台を用意してくれ」始まる柳家・第2章

そんな「柳家」も、今年の新型コロナウイルスの影響で大打撃を受けた。本店の4~9月の売上は前年比の4割減。このまま営業を続けていても会社が厳しくなることは見えている。さらに、たとえコロナショックが終わったとしても、元の売上には戻ることはないと、現社長の和彦さんは感じていた。結論として、「昼(10~15時)しか営業していない本店は効率が悪く、畳むしかない」と判断に至った。本店の営業時間を延ばして売上を保つことも考えたが、店舗が書店の3階にあるということからも、深夜まで営業することは難しかったのだ。

「このことを相談すると、親父の目が死んでいなかったんです。『ここで倒れるわけにはいかない。商売人として最後の舞台を用意してくれ』と言うんですよ」(和彦さん)

そこで、和彦さんは、昼のみ営業している本店と、夜のみ営業している大通2号店、そして既に閉店したアスティ緑ケ丘店を統合して、新たに総本店を作ろうと考えた。昼から深夜まで長く営業できる大きな路面店を作ることで再起しようと考えたのだ。

本店は11月3日で閉店とし、「柳家」の再出発の地として12月には同市大通の映画館通りに総本店をオープンさせる。創業者であり、現会長の和一さんはここでも厨房に立つ予定だ。

「この大変なご時世に借金をしてまで新店を作ろうというのはあり得ない話です。小さなラーメン屋がこういう意気込みを持てることは幸せなことだと思っています。とにかく私は人が恋しい。人が喜ぶことを続けたい。倒れるまでラーメン作りを続けたいんです」(和一さん)

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今も毎朝5時からジョギングをして体作りをし、プロとして元気な体でお客さんを迎える準備は怠らない。

45年続いた創業の地から「柳家」の名前がなくなることは、地元のファンにとって大きな衝撃だが、和一さんは諦めていない。「柳家」の第2章がこれから始まるのである。

※写真はすべて筆者による撮影

 【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】

ラーメンライター/ミュージシャン

全国47都道府県のラーメンを食べ歩くラーメンライター。東洋経済オンライン、AERA dot.など連載のほか、テレビ番組出演・監修、コンテスト審査員、イベントMCなどで活躍中。 自身のインターネット番組、ブログ、Twitter、Facebookなどでも定期的にラーメン情報を発信。ミュージシャンとして、サザンオールスターズのトリビュートバンド「井手隊長バンド」や、昭和歌謡・オールディーズユニット「フカイデカフェ」でも活動。本の要約サービス フライヤー 執行役員、「読者が選ぶビジネス書グランプリ」事務局長も務める。

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