「どうする家康」、お市の方が嫁いだ浅井長政のルーツ
大河ドラマ「どうする家康」で、大貫勇輔演じる浅井長政が初登場するやいなや、朝倉氏を攻める織田信長に叛旗を翻すことを決断した。
長政の妻は信長の妹お市の方で、信長として裏切るはずのない大名と考えていたが、古くからの盟友である朝倉氏の要請を受けて、朝倉氏とともに信長の敵に回った。これによって若狭で前後に敵を受けた信長・家康軍は窮地に陥ることになる。
浅井氏のルーツ
浅井氏は北近江の戦国大名である。江戸時代に編纂された幕府の公式系譜集『寛政重修諸家譜』では、公家の正親町三条(おおぎまちさんじょう)公綱が勅勘を蒙って近江丁野(ようの)に蟄居した際に一子をもうけ、その子がのちに京極氏に仕えたのが浅井氏の祖であるという公家落胤説を伝えている。しかし、公綱には勅勘を蒙った事実はなく、これは伝説にすぎない。
亮政・久政・長政と続く浅井3代の祖である亮政以前の浅井氏は、近江国浅井郡丁野郷(現在の滋賀県長浜市小谷丁野町)で、古くから京極氏の被官だったことしかわからない。
しかし、琵琶湖に浮かぶ竹生島にある宝厳寺の寺伝『竹生島縁起』には、奈良時代の人物として浅井磐稲・広志根という名がみえる。つまり、古代から同地には浅井氏がいたことがうかがわれ、長政の出た浅井氏もこの末裔である可能性が高い。
丁野はJR北陸本線河毛(かわけ)駅の北東側に広がる場所で、ここから東側の山を登ったところに居城小谷城がある。
亮政は大永5年(1525)に起きた京極氏の内訌に際して、守護京極高清を小谷城下に迎えてその実権を握った。子久政の代には、北近江の国衆層を自らの被官として京極氏から独立、南近江の大名六角氏と激しく争った。
そして、永禄3年(1560)に家督を継いだ長政は六角氏の内訌に乗じて南近江も支配し、さらに織田信長と結んで信長の妹お市の方を正室に迎え、近江一国を支配する戦国大名に成長していた。
しかし、元亀元年(1570)信長が朝倉氏を攻めると信長と対立、天正元年(1573)小谷城で敗れて自刃し、浅井氏は滅亡することになる。
浅井氏のその後
浅井氏のすごさは、戦国大名として滅んだ後の一族の広がりである。
ドラマにも登場した長政とお市の方の間に生まれた長女茶々は、のちに豊臣秀吉の側室淀君となる。
また、三女江(ごう、崇源院)は2代将軍徳川秀忠に嫁ぎ、3代将軍家光の生母となった他、娘の和子は後水尾天皇に入内して第109代明正天皇を産んでいる。つまり、将軍の母にして天皇の祖母という類まれな地位についた。
なお、この浅井氏は正しくは「あざい」と濁って読んだともされ、ドラマ中でも「あざい」としていたが、実際のところはっきりしたことはわからない。