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羽柴秀吉は死んだふりをして、着々と徳川家康・織田信雄への対抗策を練っていた

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
大阪城豊国神社の豊臣秀吉公銅像と雪。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「どうする家康」は、羽柴軍が織田・徳川連合軍に敗北を喫した。とはいえ、羽柴秀吉は諦めたのではなく、着々と徳川家康・織田信雄への対抗策を練っていたので、その辺りを考えてみよう。

 天正12年(1584)4月9日、羽柴軍は織田・徳川連合軍と岩崎口(愛知県日進市)で戦い、主力の池田恒興・元助父子、森長可らを失うなどし敗北した。

 秀吉は負けたとはいえ、それは局地戦での敗北に過ぎず、全体への影響は少なかった。それどころか、秀吉は「次の一手」を進めていたのである。

 4月11日、秀吉は岐阜城(岐阜市)の留守を養子の秀勝に任せ、伊藤牛介らにその補佐を依頼した(「尊経閣文庫古文書纂編年文書」)。

 政治に念を入れ、町人に迷惑を掛けないよう命じている。さらに、岐阜城近くの大浦城(岐阜県羽島市)に交代で3百の軍勢を入れ置き、城の普請も指示した。家康への対策である。

 大浦城の在番を任されたのは、伊藤牛介と一柳直末である(「山田覚蔵氏所蔵文書」など)。その加勢には、池田氏の家臣が駆り出された(「伊木文書」など)。

 さらに、秀吉は牛介と直末に竹ヶ鼻城(岐阜県羽島市)に軍勢を入れ置くこと、秀吉の軍勢の一部を茜部(岐阜市)に遣わすこと、秀勝の軍勢約2千を遣わすこと、など細かい指示を与えた(「一柳文書」)。それだけではなかった。

 4月11日、秀吉は池田氏の家臣・河井氏に書状を送り、岐阜城に人質を供出するよう求めた(「河井文書」)。池田氏は恒興・元助父子が亡くなり、照政(輝政)だけが生き残った。その照政も怪我をしており、秀吉は見舞いの手紙を出しているほどだった(「林原美術館所蔵文書」)。

 当時、照正は20歳の青年だったが、父と兄の不慮の死で家督を継ぐことになった。秀吉が人質の供出を求めたのは、新たな関係を築く手続きだろう。

 4月11日、秀吉は池田恒興の母・養徳院に書状を送り、戦死した恒興・元助父子に弔意をあらわした(「林原美術館所蔵文書」)。書状中では、照正を宿老衆に加えることを知らせ、嘆き悲しむのは止めてほしいと伝えた。

 また同じ日、秀吉は池田氏の家臣・土蔵氏に書状を送り、恒興の後継者に照政が就いたこと、以前と変わらず忠誠を尽くすように求めた(「大阪城天守閣所蔵文書」)。秀吉が池田氏の力を頼っていた証左でもある。

 秀吉は、同盟する大名への釈明にも追われた。木曽氏に対しては「長久手の戦いでは勝てず、いろいろな噂が流れているかもしれないが、大勢には影響がない」と釈明している(「亀子文書」)。

 むしろ、松ヶ島城(三重県松阪市)を落とし、弟の秀長、筒井順慶らの軍勢が尾張方面に転戦するとの情報を与え、安心させようとした。それは、宇喜多氏の家臣に対しても同じだった(「武州文書」)。

 一方の家康は秀吉を打ち破り、上洛する意思を諸大名に報告していた(「皆川文書」)。ただ、信雄の書状には戦勝を伝えるものはあるが、上洛の意思を示したものはない。

 もともとは信雄と秀吉の戦いだったが、実質的には家康と秀吉との戦いに転化していったように見えなくもない。こうして秀吉は、着々と織田・徳川連合軍への反転攻勢の機をうかがっていたのである。

主要参考文献

渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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