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豊臣秀吉が本能寺の変が起こることを知っていたというのは、事実なのだろうか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:アフロ)

 6月といえば本能寺の変なので、豊臣秀吉が本能寺の変が起こることを知っていたという話題を取り上げることにしよう。

 天正10年(1582)6月2日の本能寺の変により、織田信長は明智光秀に急襲されて自害した。本能寺の変には、羽柴(豊臣)秀吉が関与していたとの説がある。

 秀吉は信長の死を知ると、備中高松城(岡山市北区)で毛利方の部将・清水宗治と交戦中にもかかわらず、毛利氏との和睦を急いで締結した。

 その直後、秀吉は「中国大返し」で備中高松城から上洛し、同年6月13日の山崎の戦いで光秀を討った。これだけのスピードで戻るのには、秀吉が事前に光秀の計画を知っていないと不可能だと指摘する論者がいる。本当に秀吉は、事前に光秀の挙兵を察知していたのだろうか?

 スペイン人の貿易商人のアビラ・ヒロンが執筆した『日本王国記』には、「家康をはじめ、まだ臣従していなかったその他の人々も、内密にではあったが明智の側に加わっていた」と書かれている。

 「その他の人々」のなかには、秀吉も含まれていたと考える論者がいる。つまり、秀吉は光秀に与していたという解釈である。しかし、秀吉は光秀を討ったのだから、裏切ったということになろう。

 ヒロンは生没年不詳。文禄元年(1594)に平戸へ来日すると、以後は東南アジア方面を往来し、慶長12年(1607)に日本に戻った。少なくとも元和5年(1619)までは、日本に滞在していたという。

 彼の手になる『日本王国記』は、当該期の日本の事情を知るうえで、貴重な史料と評価されている。特に、商業や貿易関係の記述は、非常に重要であるとの指摘がある。なお、残念ながら同書の原本は残っておらず、写本だけが伝わっている。

 ところが、16世紀末頃から17世紀初頭に日本に滞在したスペイン人のイエズス会士のペドロ・モレホンは、『日本王国記』の記述内容について「著者みずからは正確であるといっているにもかかわらず、彼の日本に関する知識の僅少の故に数多くの誤りがある」と述べている。

 つまり、『日本王国記』の記述を全面的に信用するのは、危険であることを示唆しているのだ。

 本能寺の変が勃発したのは、ヒロンが来日する14年前の出来事である。どうやって彼は、秀吉と光秀が結託していたことを知ったのか判然としない。さらに『日本王国記』の記述内容が不完全である可能性が高いならば、秀吉と光秀が結託していたという説を受け入れられないだろう。

 以上の理由から、『日本王国記』の秀吉が光秀に与していたという記述には、いささか疑念を持たざるを得ない。もちろん、日本側の史料にも、秀吉と光秀が結託していたと書かれたものはない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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