パワハラで主君と揉めた戦国武将3選
最近、政治家によるパワハラが大問題となっている。いかなる事情があるとはいえ、感情的になって大声をあげて怒鳴るなど、決して許されることではない。
実は、戦国時代にもパワハラで主君と揉めた戦国武将がいたので、そのうち3人を紹介することにしよう。
◎明智光秀
光秀は織田信長に登用され、丹波や近江を領するまでになったが、天正10年(1582)3月に武田氏が滅亡して以降は、関係が悪化したようである。
光秀が信長から失言を咎められ、頭を欄干にこすりつけられたという話がある。また、庚申待の最中に光秀が用を足そうと立ち上がると、激怒した信長が光秀の喉元に槍を突き付けたという。
光秀が徳川家康を接待する係を命じられ、信長と相談したことがあった。その際、光秀が信長の問いに口答えしたので、足蹴にされることがあった(フロイス『日本史』)。
こうした信長によるパワハラがあって、光秀は信長を討とうと決意したというが、真相はいまだ明らかになっていない。
◎黒田官兵衛
官兵衛は秀吉に登用され、播磨の土豪から豊前中津(大分県中津市)にまで出世した。しかし、天正15年(1587)に伴天連追放令が発布されると、風向きが変わった。
官兵衛はキリシタンだったので、その信仰などをめぐって、秀吉とたびたび対立し、口論になったのである。
宣教師は官兵衛を頼りにしていたので、官兵衛を通して秀吉に要望を伝えることがあった。その度ごとに、官兵衛と秀吉は激しく口論したという。
一説によると、官兵衛は数ヵ国を与えられる予定だったが、秀吉は官兵衛が信仰を捨てず、また反抗的だったので、中津だけに止めたといわれている。
◎後藤又兵衛
又兵衛は官兵衛・長政父子から取り立てられたが、長政が福岡藩主になって以降、関係が悪化したことで知られている。
当時、長政は領内の農民が隣国の細川忠興の領内に走ることがあり、関係が良くなかった。その忠興と頻繁に書状のやり取りをしていたのが又兵衛だった。
家臣がほかの大名当主と書状を交わすのは、よいとはされていなかった。そこで、長政はたびたび又兵衛に対して、忠興と書状を交わすのを止めるよう求めたが、これは拒否された。
その結果、又兵衛は黒田家を出奔したが、以降の仕官活動は長政から妨害されたのである。長政は又兵衛の縁者を捕縛するなど、嫌がらせも行っていた。