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白熱のセ・リーグ優勝争い。30年前、巨人が果たしたメークドラマの舞台裏

楊順行スポーツライター
球団創設90年の節目、巨人の優勝なるか(撮影/筆者)

 巨人が一歩リードしたが、デッドヒートが続くセ・リーグ。残り試合で巨人がひとつ引き分けでもしたら、巨人と阪神両者が相星で並ぶ可能性さえあるから、目が離せない。

 30年前。当時巨人を率いていた長嶋茂雄監督が「国民的行事」とまで称した一戦がある。

 1994年10月8日、中日—巨人の26回戦。両者はそこまで、129試合を消化してともに69勝60敗の首位。つまり130試合目、シーズン最後の直接対決が、優勝をかけた大一番となったのだ。この試合は、もともと9月29日に予定されていたが中止となり、組み込まれたのが10月8日。お天道様の気まぐれが、同率チームによる優勝決定戦を演出したわけだ。

 勝ったほうが優勝という最終試合の直接対決は過去にもあったが、相星での決戦となると史上初めてのこと。「栄光かゼロかきょう大一番」(10月8日付日経スポーツ面)と報じた国民的行事である。

栄光かゼロか。きょう大一番

 巨人が独走でテープを切っていてもおかしくないシーズンだった。長嶋監督は、巨人復帰が決まった92年のドラフト会議で、何十年に一人のスラッガー・松井秀喜(当時星稜高)を引き当てた。93年は勝率5割を切って3位だったが、94年は中日からFAで落合博満を獲得。開幕戦ではその落合に移籍第1号が出て、松井は2ホーマーと爆発し、4月は13勝6敗という鮮やかなスタートダッシュを切った。

 以後も、開幕戦で完封した斎藤雅樹、槙原寛己、桑田真澄の三本柱が機能する。ことに槙原は、5月18日の広島戦で完璧な投球を見せ、16年ぶり15人目の完全試合を達成した。6月には16勝6敗とハイペースで勝ち進み、7月上旬には45勝24敗、貯金21として2位に9・5ゲーム差をつけた。独走である。

 その7月は9勝12敗と負け越し、8月も4連敗と3連敗が一度ずつ。それでも、24日時点で2位中日とは9ゲーム差があり、18日に点灯したマジックも、17まで減っていた。だが、8月25日から9月3日まで8連敗する間に中日がじわりと差を詰める。9月18日から10月2日までは9連勝し、残り5試合で66勝59敗と、両者はピタリと並んだ。ここから巨人が3勝、中日2勝1敗と、巨人が1ゲームリードで迎えた10月6日だ。どちらも129試合目。中日は阪神に10対2で快勝したが、勝てば優勝に近づく巨人は、2対6とヤクルトに星を落とした。独走のはずだった巨人のまさかの急失速、10月6日まで16勝5敗という中日のラストスパート。かくして、「10・8」というクライマックスを迎えることになる。

 超満員のナゴヤ球場。中日の先発は、中5日で今中慎二。巨人は、中1日で槙原を立てた。今中はナゴヤでの巨人戦に強く、このシーズンはここまで4勝1セーブ、防御率も1・85で、通算でも11連勝中だ。一方の槙原は、6日のヤクルト戦、同点から斎藤を救援して秦真司に勝ち越し3ランを浴びている。分は、中日にあるか? 事実今中は初回を14球で片づけ、一方の槙原は0には抑えたが、先頭から連打を浴びる不安な立ち上がりだ。

 この試合について、かつて槙原さんに振り返ってもらったことがある。長嶋監督からは、早くから先発を告げられていたという。

「完封した10月1日のヤクルト戦のあとにいわれたと思います。自分でも、順番ではオレだなと思っていた。ただその時点では、8日の試合が最終決戦になるとは思っていません(笑)。それまでに優勝が決まっていてくれよ……と思っていたでしょうが、こっちが勝てばむこう(中日)も負けないんです。6日のヤクルト戦は斎藤(雅樹)が先発し、同点の場面で僕がリリーフに出て負けているんです。これで両チームが69勝60敗でぴったりと並び、最終戦が大一番ということになりました。

 7日の移動日、名古屋のホテルで監督室に呼ばれ、長嶋さんから翌日の先発をいわれました。そして"後ろには斎藤と桑田もいるし、この3人以外は投げさせる気はない。思い切っていってくれ"と。桑田も監督室に呼ばれて、同じようなことをいわれたそうです。で、3人が投げるということをほかの投手陣にポロッと話したんです。そしたら宮本(和知)とか水野(雄仁)なんかは、心底ホッとした顔をしていました。ああ、大事な試合で投げなくていいんだ……という安堵感でしょう。

 前夜は、不思議とよく眠れました。もちろん気持ちは高ぶっているんですけど、ベッドの中で中日打線との対戦をシミュレートしながらすぐに寝ついて、翌朝は11時ころまで寝ていたかなぁ。もちろん、プレッシャーはすごいんです。すごいんですが、とにかくオレが投げなきゃ始まんない、やることは一緒、という心境でした。

 試合前のミーティングで長嶋さんが"これだけ国民の関心を集める大事なゲームは、二度とないだろう。ここまできたら、責任はすべてオレがとる。とにかくみんな、精一杯頑張ってくれ"と。最後は"オレたちは勝つぞ! 勝つ! 勝つ! 勝つ!"。まるで戦国武将のようでした」 

 2回。巨人は先頭の落合のホームランなどで2点を先制すると、4回までに3本塁打含む8安打を浴びせて今中を攻略する。実は巨人、今中のクセを見抜いていた。グラブの中の、手首の見え方だ。ストレートなら内側。カーブならまっすぐ。フォークなら隠れて見えない。とっておきの分析だが、独走状態の間は来シーズンまで封印しておくつもりだった。さすがに相手も気づくため、ここ、という試合1回ぽっきりしか使えないからだ。だが優勝のかかる試合となれば、出し惜しみもしていられない。その切り札が、11連敗中の相手に実に効果的だった。槙原さんは2回に2点を与え、早々にマウンドを斎藤に譲ったが、巨人が優位に試合を進めていく。

「オマエの力が必要だ」と長嶋監督

 この年の長嶋監督は、対話を重視したように感じた、と槙原さんはいう。

「僕は93年にFAを獲得し、オフには中日に移籍か? などという話が出ていたんですが、本心は巨人でプレーを続けたかった。そんなころ、長嶋さんがたびたび僕の家を訪ねてきて、"オマエの力が必要だ"と移籍を引き留めてくれたんです。ときにはバラの花束を抱えてね(笑)。あそこまで長嶋さんと会話することは、ほとんどありませんでした。そして結局巨人に残ることができた。同じ時期にFAを獲得した駒田(徳広)さんなんかは、落合(博満)さんの入団が決まっていたので、横浜に移籍したでしょう。あとでいわれましたよ、"いいよなぁオマエは、引き留められて"(笑)。だから94年のシーズン、長嶋さんに恩義を感じていたことは確かです。

 対話路線は、キャンプでも続きました。休日になるたびに"メシでも行こうか""飲みに行こうか"と投手陣、野手陣それぞれを誘い、出かけていましたから。おそらく腹を割って話すことで、一体感を高めようという意図もあったでしょう。

 確か8月の連敗中かな。試合が終わったあとのバスで、長嶋さんがマイクを手にとってこういうんです。"お疲れさん。連敗しているこういう時期だからこそ、気分転換が必要だ。今日はみんな、パーッと飲んでこい! 時間が遅いので出かける気がしなければ、ホテルのビールを球団付けで飲んでくれ"。これにはびっくりしました。連敗中なんかはとくに、外出禁止になるものなんですが、逆に"パーッとやれ、気分転換しろ"でしょう。チームは盛り上がり、ああ、連敗は止まるなと思ったら翌日、そのとおりになりました。変わったといえば、長嶋さんのそういうところです」

 中日・高木守道監督がエース・今中を4回まで引っ張ったのに対し、長嶋監督の投手リレーは高校野球ばりだった。2回表に2点を先制した守り。不運な内野安打など4連打で、槙原さんが2点を失うと、斎藤をマウンドに送るのだ。同点でなおも無死一、二塁。打席に今中という場面だった。

「確実にバントの場面、僕はフィールディングが得意じゃない。そこも考慮してのスイッチでしょう。実際に今中はバントしてくるんですが、斎藤がこれを素早く処理し、走者は三塁封殺です。ありがたかったですね。自分が残してきたピンチを、斎藤が断ち切ってくれたわけですから。しかも斎藤は、内転筋を痛めているのに患部をテーピングでがっちり固定し、そんな素振りすら見せませんでした。結局この回は同点止まりですんでいる。もしここで追い越されていたら、試合はどうなったかわからなかったでしょう。

 降板したあと、正直いうとプレッシャーから解放されてめっちゃ安堵しました(笑)。ふつう、降板したらベンチ裏のトレーナー室にこもり、アイシングとマッサージを受けながら室内のテレビを見るものですが、このときばかりは引っ込んでいられません。アイシングもそこそこに、ベンチに戻って終了まで、最前列で大声で応援しましたね。まるで高校生みたいに……。

 この試合では、落合さんが3回裏の守備でケガをしたり、中日でも立浪(和義)が一塁にヘッドスライディングして負傷退場したり、みんなが高校生のようになっていたんですよ。とにかく、長いシーズンがこの1試合で決まるんですから、どうなってもかまわない、というくらいの純情でプレーしていた。もっとも、この状況でその気にならないような選手なら、そもそもベンチにも入れないでしょうけどね」

 2回に同点とされた巨人だが、3回には落合のタイムリーで勝ち越し、4回には村田真一、コトーのホームランでさらに2点を追加。今中攻略の秘策が的中し、6対3と3点リードの7回から、中2日で桑田にマウンドを託す。長嶋監督から前日「しびれる場面で、いくぞ」といわれたその桑田は、2安打を打たれながら、5三振を奪う気迫の投球で優勝投手に輝くことになる。あのときの高木監督は、と槙原さん。

「特別な一戦だからこそ、ふだんどおりにやろうとしたんじゃないですか。先発今中で、行けるところまで行く。ほかにも山本昌らがいたのに、これを温存して今中を4回まで引っ張ったでしょう。それに対して長嶋さんは、僕が取られたら、すぐに斎藤にスイッチ。僕と斎藤は中1日、桑田は中2日ですから、いまなら考えにくい起用です。まあ、後半戦はほぼこの3人で回してきたから、野手も、"あの3人で負けるのならしょうがない"と納得してくれていたんじゃないですか。ふだんどおりの高木さんに対し、長嶋さんがギャンブルに出た感じですね。僕ら三本柱にすべてを託した」

 かくして。独走のはずがハラハラドキドキの、メークドラマが成就。「あの10・8を経験すれば、怖いものはなにもなくなります」という槙原さんは、西武との日本シリーズ第2戦を完封し、第6戦でも1失点完投でMVPを獲得することになる。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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