あまりに気の毒だ!器量が良くないとされた3人の戦国女性
大河ドラマ「どうする家康」では、出演する女優の美しさも話題になった。一方で、戦国時代には器量が良くないとされたと伝わる女性がいたので、うち3人を紹介することにしよう。
1.洞松院尼(生没年不詳)
洞松院尼は細川勝元の娘で、もともとは龍安寺(京都市右京区)の尼僧だった。明応2年(1493)、播磨などの守護・赤松政則のもとに嫁いだ。当時、洞松院尼の年齢は30歳前後と考えられているので、かなりの晩婚だった。これは、赤松氏と細川氏の関係を強化する政略結婚だった。
『蔭凉軒日録』によると、洞松院尼の容姿は「鬼瓦」のようだったという。また、『赤松盛衰記』には、「洞松院ト云フ比丘尼ノ、極メテ醜女ノ在ケルヲ、無理ニ所望シ、還俗セサセ、コレヲ娶テ、政則カ妻トシ」と書かれているので、洞松院尼はブスであると後世に伝わったようである。
2.新庄局(1533~1606)
新庄局は安芸の国人・熊谷信直の娘で、天文16年(1547)に吉川元春(毛利元就の次男)の妻となった。この結婚は、吉川氏、毛利氏と熊谷氏の関係強化を図る政略結婚だった。しかし、新庄局は「白くも頭」(頭部白癬)で、歩く姿はガニ股かつ背が曲がっていたという。
それゆえ、新庄局は「世にまたとなき悪女」といわれてきた。父の信直は新庄局の容姿があまりに醜く、誰も結婚してくれないので悲嘆に暮れていた。しかし、元春は「わが望むところは熊谷信直の嫡女なり」と述べ、新庄局を妻として迎えたのである。
3.朝日姫(1543~1590)
朝日姫は竹阿弥の娘として誕生した。豊臣秀吉の妹でもある。天正12年(1584)、秀吉は徳川家康と戦ったが、和睦した。その証として天正14年(1586)、家康は朝日姫を妻として迎えたのである。しかし、朝日姫はもう40歳を越えており、かなりの年齢だった。
また、朝日姫は器量が良くなかったといわれている。秀吉は夫と離婚させてまで、朝日姫を家康のもとに送り込んだが、結婚生活は長く続かなかった。天正16年(1588)、朝日姫は母の見舞いをするため上洛したが、そのまま家康のもとに帰ることなく、2年後に亡くなったのである。