悪口や虚言でも行われた、中世の島流し
流刑は罪人を辺境や離島に送る刑罰であり、近代に入るまではポピュラーな刑罰でした。
そんな流刑ですが、罪人が流刑先でどのような生活を送っていたのかについてはあまり語られていません。
この記事では中世の島流し先の生活について紹介していきます。
悪口を言っただけで島流しにされる人もいた
中世時代、すなわち鎌倉時代や室町時代における流刑は、古代の時代とはまた異なった風情を帯びていました。
何しろ、この時代は国の内外において多事多難の時代であり、かつてのように穏やかな日々は遠く彼方へと去ってしまったからです。
鎌倉幕府が武家政権を確立し、戦乱や政治的な対立が続くこの時期には、流刑といえどもその性質や対象が変化していました。
さて、まず鎌倉時代に話を戻すと、この時代の流刑は「御成敗式目」という法律に基づいて行われていました。
この法典には、夜討ちや強盗、あるいは傷害や賭博など、罪の重さに応じて流刑や斬刑が定められていたのです。
特に興味深いのは、喧嘩のもととなる「悪口」を罪として取り扱った点です。
悪口を言いふらした者、つまり人の名誉を毀損した者は、厳しく罰せられ、流刑に処されることもありました。
今ならば、日々新聞で飛び交う誹謗中傷の類が、当時ならば島流しの対象となっていたわけです。
しかも、その重みは英国と比較しても驚くほどで、悪口がどれほどの社会的問題を引き起こすかを物語っています。
さらに面白いのは、「虚言」や「讒訴」、すなわち嘘をついたり他人を訴えたりした者も流刑に処されたことです。
今でいえば、訴訟社会の中で人々が軽々しく争いを持ち出すことは当時もあったらしく、それを防ぐための規定だったのかもしれません。
また、他人の妻を密かに懐に抱いた、つまり不倫を行った者も、特に財産を持たない者であれば島流しにされるという厳しい掟が存在していました。
貞永式目は、鎌倉時代の法体系の基礎を成しており、これに基づいて多くの流刑が行われたのです。
さて、この時代に実際に島流しに処された人々の名をいくつか挙げてみましょう。
鎌倉幕府が泉親衡の謀反を鎮圧した際、和田義盛の一族である荏柄準太が陸奥に流されました。
さらに有名な承久の乱では、討幕に関わった多くの公卿が流刑に処され、後鳥羽上皇を含む三上皇がそれぞれ隠岐、佐渡、土佐といった地に流されたのです。
このように、上皇までもが流刑にされることは、当時の時代背景を象徴する事件であり、国家の安定を求める武家政権の厳しい姿勢が垣間見えます。
特に興味深いのは、日蓮上人の流刑です。
彼は法華経を広めることに尽力したものの、他宗派を批判したことで北条時頼の怒りを買い、伊豆に流されることとなりました。
しかし、彼の流刑は特に過酷なものではなく、しばらくすると許され、布教活動を再開したのです。
とはいえ、文永八年には再び各宗派を誹謗したため、今度は死刑を宣告されるまでに至ります。
しかし、この死刑の場面で、彼の首を斬ろうとした刀が折れるという奇跡が起こり、結局は佐渡に流されるに留まったという逸話が伝わっています。
この話は、日蓮宗の信者たちにとっては重要なエピソードとして語り継がれているものの、実際には、北条時頼が死刑から一等を減じたに過ぎません。
後醍醐天皇の時代に至っても、流刑はしばしば行われました。
特に中納言資朝(すけとも)の佐渡流しは有名であり、この時代の政治的混乱を象徴する事件の一つです。
しかし、足利時代に入ると、流刑の数は次第に減少していきます。
理由は明白で、鎌倉時代末期から足利時代にかけて、国内はさらに乱れ、戦争が日常茶飯事となっていたためだからです。
このような状況下では、もはや流刑などという面倒な処罰を行う余裕はなく、多くの者がその場で斬罪に処されてしまったのでしょう。
流刑に比べて、斬刑は迅速で確実な方法であり、戦乱の中ではそれが優先されました。
ただし、足利義政の妾である大館氏が琵琶湖の沖島に流された事件は、足利時代における数少ない流刑例の一つとして知られています。
彼女は義政の夫人、富子を暗殺しようとしたため、その罪を問われたものの、流された先で自ら命を絶ちました。
このように、流刑は決して常に厳しい罰ではなく、時にその先で自害を選ぶ者もいたのです。
まとめると、鎌倉時代から足利時代にかけての流刑は、法的には厳格に定められながらも、実際には戦乱や混乱の影響で、その適用がまちまちであったことがわかります。
戦乱が激化する中で、流刑よりも即時的な斬罪が主流となり、流刑そのものは次第に減少していきました。
しかし、その中でも名を残した流刑人たちは、歴史の波に翻弄されながらも、時に奇跡的な運命に救われたり、逆に過酷な末路を迎えたりしたのです。
参考
小山松吉(1930)「我國に於ける流刑に就て」早稲田法学 10 p.1-37