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【茶の歴史】細々と飲まれ続けていた!朝鮮半島でお茶はどう飲まれていたの?

華盛頓Webライター
credit:unsplash

朝鮮半島における茶文化の歴史とは、まるで季節の風が吹き抜ける山野を想起させるものです。

伝説によれば、インドから首露王の妃である許黄玉が茶の種子を持ち込んだといいますが、歴史の舞台にその姿が明確に現れるのは、新羅時代。

興徳王の時代、大廉が唐から持ち帰り、智異山に植えた茶の種子がその始まりとされます。

しかし、朝鮮半島は冷涼で乾燥した気候ゆえ、茶の栽培には厳しい地でした。

茶は限られた量しか生産されず、その品質も芳しくありません

宋の使節が記した『高麗図経』では「苦渋不可入口」と評されているほどです。

その一方、寺院では茶が儀礼として僧侶たちに用いられた形跡が残ります。

茶は信仰の道具であり、俗世の嗜好品としての役割は限定的であったようです。

しかし李氏朝鮮時代になると、儒教が仏教文化を排斥し、喫茶の風習も断絶したかに見えます

しかしながら、一部の地方では茶の生産が続き、「天池団茶」や「青苔銭」と呼ばれる固形茶が王宮で贈答用に作られていました

とはいえ、高品質の茶は中国から輸入されることが多かったのです。

李朝の庶民にとって、茶はさらに遠い存在でした。

焦げ飯を煮出した湯「スンニュン」が庶民の食卓を飾り、茶葉を煎じるような贅沢は望むべくもなかったのです。

また、「茶」という言葉そのものが木の根や果実を煎じた薬湯を指す場合もあり、今日我々が思い浮かべる茶とは隔たりがあります

このように、茶文化の足跡は薄れがちであったものの、それでも細い糸のように続いていました

末期には僧の草衣(意恂)が登場し、茶に関する著作を遺してさえいます。

『東茶頌』や『茶神伝』には、中国宋・明時代の影響が見られ、茶文化の灯火を守ろうとする姿勢が窺えるのです。

近代に入ると、日本や西洋からの影響を受ける中で、茶文化は民族主義と結びついて新たな姿を見せました

朝鮮戦争後、草衣の流れを汲むと称する般若露茶礼が現代の韓国茶文化の基礎となったのです。

このように、朝鮮半島の茶の歴史は、波風のように消え入りそうでいて、時に強く蘇る、しなやかな生命力を持っています。

参考文献

ビアトリス・ホーネガー著、平田紀之訳(2020)『茶の世界史』、白水社

Webライター

歴史能力検定2級の華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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