【その後の鎌倉殿の13人】北条泰時が御成敗式目を制定するに至るまでの恐るべき時代背景とは?
鎌倉幕府の第3代執権・北条泰時は、御成敗式目(貞永式目とも呼ばれる)という法令を制定したとして、日本史の教科書などでも、その名が特筆されています。泰時が式目を制定したのは、貞永元年(1232年)のことですが、どのような時代背景のもと、式目は制定されたのでしょうか。鎌倉時代後期に編纂された幕府の歴史書『吾妻鏡』の貞永元年5月14日条には、泰時が「御成敗式條」(式目のこと)を作るよう、既に内々に命じていたことが分かります。式目の制定が考案されていた頃、日本においては、恐るべき事態が起こっていました。寛喜(1230から1231年に発生)の大飢饉が発生し、人々を苦しめていたのです。この飢饉は、日本の人口の3分の1が亡くなったと言われるほどの惨状を呈したとされます。飢饉の影響は都にも及び、餓死者の腐臭が京中に漂っていたとのこと。
飢饉の深刻さは、泰時のもとにも届いていました。寛喜4年(1232)3月には、伊豆国仁科荘の「土民」が飢饉により餓死してしまい、農業が出来ない状態になっているとの嘆きが、泰時に寄せられています(『吾妻鏡』)。泰時はこの報せを得ると、米30石を荘民に貸し与えることを命じます。しかし、荘民も困窮の極みです。貸し与えられても、返済できないこともあるでしょう。そうした際には、泰時の負担で返すようにせよと、彼は家臣・矢田六郎兵衛尉に命じています。『吾妻鏡』は、泰時の人格の高潔さを記していることが多いですが、この逸話もまたその1つと言えるでしょう。ちなみに泰時は、前年(1231)3月にも、伊豆と駿河国の領民に米を貸し与える命令を出しています。