【その後の鎌倉殿の13人】悪党襲来!執権・北条泰時は異母弟・朝時の危機にどのように対処したのか?
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寛喜3年(1231)9月27日。日中、名越(現在の鎌倉市)において「騒動」が起こりました。何者(鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』では、敵と表現)かが、北条朝時の邸に討ち入ったのです。朝時は、鎌倉幕府の第3代執権・北条泰時の異母弟でした。「敵」が名越の朝時邸に乱入した頃、泰時は評定(会議)の最中。しかし、泰時は異母弟の危機を聞いて、評定の席を立ち、自ら名越に向かうのです。もちろん、朝時を救援するためです。泰時の後を追うように、北条時房(泰時の叔父)なども、馬を名越に飛ばします。名越の邸に討ち入られた朝時ですが、自身はその時、他所に出かけており、不在でした。よって、留守を預かる侍たちが、敵の乱入に対処したのです。『吾妻鏡』は「敵」のことを「悪党」(他所からやって来て、隠れ住んでいた)とも記載しています。
だが、悪党らは、朝時の家臣らの防戦により、生け捕られたり、敗れて自殺したりしたのです。そうした情報は、救援に向かう泰時らにも入ってきたのでしょう。泰時はもう安心だろうと判断し「壮士」(勇ましい士)を名越に遣わし、自らは帰途についたのでした。弟の危機を聞き、政務を投げ打ってでも、救援に駆け付けようとする兄・泰時。泰時らしいと言えば、泰時らしい振る舞いですが、泰時のこの行動を短兵急と非難する人もいたのです。