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徳川家康は大坂夏の陣で戦死し、その代わりを影武者が務めていたというのは本当なのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」が12月17日で最終回を迎え、徳川家康の死の場面も描かれていた。一説によると、徳川家康は大坂夏の陣で戦死し、その代わりを影武者が務めていたといわれている。その話が事実なのか、検討することにしよう。

 慶長20年(1615)5月の大坂夏の陣の際、家康は戦死したという説がある。昭和42年(1967)、三木啓次郎氏(水戸藩の家老の子孫)は、南宗寺(堺市南旅籠町)に徳川家康の碑を建立した。

 この碑には大坂夏の陣で家康が戦死したと記されており、同寺の家康の墓こそ本物であると書かれている。もう少し詳しく、その経緯など確認してみよう。

 同年5月、真田信繁の攻撃を受けた家康は、駕籠で逃げる途中で槍で突かれて大怪我をしたという。重傷を負った家康は、やがて瀕死の状態となり、堺の南宗寺に着くと亡くなったのである(冬の陣で後藤又兵衛の槍に刺されたという説もある)。

 家康の死が広く伝わると、徳川方から続々と豊臣方に寝返る大名が出ると予想された。そこで、家康の側近の大久保彦左衛門は、家康とよく似ていた古河城主の小笠原秀政を影武者にしたのである。それから約1年の間、秀政が家康の影武者を務めたという。

 いうまでもないが、「家康影武者説」はあまりに荒唐無稽すぎて、とても受け入れることはできない。もちろん、明確な史料的根拠はない。戦国武将に影武者がいたという話(武田信玄など)はよく聞くが、実際はまったく史料的根拠がなく、作り話ばかりである。

 南宗寺には、ほかにも家康に関するおもしろい逸話がある。元和3年(1617)3月、家康の遺体は久能山(静岡市)から日光東照宮(栃木県日光市)に移葬されたが、実は久能山からではなく南宗寺から改葬されたという説がある。この説は、家康が大坂夏の陣で死んだことを前提したものである。

 元和9年(1623)7・8月、二代将軍・秀忠と三代将軍・家光が相次いで南宗寺を訪問し、家康を偲んだのがその証拠だといわれている。

 南宗寺の近くには、家康が通ったことにちなんで「権現道」もあるので、あたかも事実のように思えるが、やはり明確な根拠がないので疑わしい。なお、千葉県市川市にも、家康が通ったという「権現道」がある。

 ここまで検討してきた家康にまつわるエピソードのうち、特に家康の影武者の話については、大坂夏の陣で凄絶な戦死をした信繁の存在と大いに関係があるだろう。

 わずかな兵しかいない信繁が天下人の家康を死に追いやったことは、たとえ創作であっても人々は拍手喝采した。史実としては、信繁が家康を討つという本懐を成し遂げられなかったが、人々は信繁の命懸けの戦いを賞賛したのである。

 一方の家康は、醜態をさらけ出し、ひたすら逃げるしかなかった。信繁は逃げる家康を追い詰めたので、こうした姿が広く人々に賞賛され、信繁のヒーロー像を築くことになったと考えられる。

主要参考文献

渡邊大門『誤解だらけの徳川家康』(幻冬舎新書、2022年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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