<トルコ>私が大好きだった「ダエ」夫亡くし、子ら支えたクルド女性の生涯(写真9枚)
◆我闘う、ゆえに我あり
2020年1月、あるクルド女性が89歳でこの世を去った。私がトルコ・イスタンブールで、マクプレ・アティラさんと知り合ったのは25年前。取材でお世話になった通訳のジャマルさん(52)の母親だった。ときに家に泊めてもらい、料理や洗濯をともにしたこともあった。(玉本英子/アジアプレス)
私は彼女のことを「ダエ」と呼んだ。クルド語でお母さんという意味だ。毛糸のベストを着こみ、頭にまいたスカーフの下には三つ編みの白髪がのぞく。性格は決して温厚とはいえず、周りにいつもけんか口調だった。
一緒に青空市場へ行ったときのこと。私が野菜を買おうとすると、ダエは大声で店主をののしり始めた。店主が外国人の女の私を見て値段をごまかそうとし、それを見逃さなかったのだ。学校へ行けなかったため読み書きはできなかったが、鋭い観察力を持っていた。
トルコ東部ムシュ県ヴァルトのアレヴィー教徒の村の出身のダエ。クルド人で、そのなかでも少数派のザザ方言を話した。14歳で結婚、夫との間に子ども10人を授かるも、4人は幼くして亡くなった。
のちに夫は農作業中に事故死。彼女はヒツジの放牧と干し草売りをして、子どもたちを養った。商売相手は、周辺の村のトルコ人やクルド人の男たち。保守的な村落部では、女ゆえに見下されるので、ダエは商売でも物おじする姿を見せなかった。
トルコはかつて国内のクルド人の存在を認めず、クルド民族運動に関わる者を厳しく弾圧した。多感な青年期を迎えた息子たちは、それぞれクルド組織の政治運動に加わった。
次男は14歳のときにトルコ国旗を燃やした罪で逮捕され、1年半刑務所に。釈放後、別の容疑で6年間服役、三男も別組織の地下活動で7年間投獄された。ダエは、「国と戦うなんて無理」と息子たちを諭しながらも、陰で支え続けた。
◆「私を救うため」ダエは枕の下にナイフを置いた
2004年4月、取材中の私はイラク北部から車でバグダッドに移動しようとしていた。そのとき、トルコのジャマルさんから連絡が入った。「母があなたの不吉な夢を見た。村の部族の結婚式にあなたがいたと。この部族が夢に出るとき必ず悪いことが起きる。危険が迫っているはずだ」。ダエは悪夢に現れた私を救うため、寝る前に枕の下にナイフを置いたという。
私はバグダッドへ向かう車のシートに深く身をかがめ、移動中の7時間、食事やトイレ休憩にも出なかった。道を進むにつれ、戦闘態勢の米軍兵士が目立つようになった。この日、ファルージャでは米軍と反米武装組織との戦闘が始まり、幹線道路では日本人3人を含む外国人が次々と武装組織に拉致される事件が起きていた。迷信は信じない私だが、彼女の「虫の知らせ」に命を救われたと思っている。
保守的な農村で男たちと勝気に渡り合い、生活苦のなか、女手一つで子どもを育て上げたダエ。苦労続きの人生は、彼女の闘いでもあった。「誰に何と言われても気にしてちゃダメ、弱気になると魔物が近づく」。その言葉が私の心に残る。
あまりに尖(とが)った性格は、隣人だけでなく、息子や嫁たちも悩ませた。周囲は大変だっただろうが、それが彼女の生きる力になっていたのではないか。
近年は病気がちになり、最後は息子ジャマルさんにみとられて、彼の腕のなかで亡くなった。ダエは故郷の村の墓で静かに眠っている。
(※本稿は毎日新聞大阪版の連載「漆黒を照らす」2020年12月15日付記事に加筆したものです)