関ヶ原合戦後の真田昌幸は、真田紐を作って生活費を稼いでいたのか
先日、株価が史上最高値を更新したが、国民は実感に乏しく、生活が良くなったとは思っていないようだ。生活費で悩んでいる人も多いだろう。関ヶ原合戦後の真田昌幸は、真田紐を作って生活費を稼いでいたというが、それが本当なのか考えることにしよう。
慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦の際、真田昌幸は子の信繁とともに西軍に属し、上田城(長野県上田市)で東軍の徳川秀忠(家康の子)の軍勢と戦った。しかし、西軍が敗北したので、昌幸は降参し、信繁とともに九度山(和歌山県九度山町)に流された。
一説によると、昌幸は信繁とともに「打倒家康」の作戦を考えていたというが、今では誤りとされている。実際は生活が厳しく、金策に走る日々だった。昌幸は真田紐を作り、生活費に充てていたというが、それが事実なのか考えてみよう。
昌幸は九度山に流されたとき、正室の山之手殿を伴わず、伊勢出身の女性と同居していたという(『先公実録』)。昌幸が正室を残してきた理由はわからないが、厳しくなるであろう生活を心配したのかもしれない。
九度山で生活することになった昌幸は、大小の刀の柄に木綿の打糸を巻いて生業とした。これを見た人は、あまりの粗末さに嘲笑したと伝わるが、これこそが「真田紐」である(『名将言行録』)。
昌幸は人々の冷たい言葉に対して、「たとえ錦の服を着ていても、心が頑愚(愚かで強情なこと)ならば役に立たない」と述べた。そして、昌幸が大小の刀を抜いたところ、それは名刀として知られる「相州正宗」だった。
正宗は鎌倉時代に活躍した著名な刀工であり、その刀は珍重された。人々は昌幸の心意気に敬意を表し、その木綿の打糸を「真田打」(「真田紐」のこと)と呼んだと伝わっている。
以上の話は、昌幸の闘志が衰えていなかったことを示しており、よく知られた逸話でもある。とはいえ、『名将言行録』は、明治2年(1869)に館林藩士の岡谷繁実が執筆したものである。
同書は戦国武将のおもしろい逸話を多数収録しているが、裏付けとなる史料がないことが多いので、内容はほとんど信が置けないと評価されている。
「真田紐」は、物の紐、掛軸の吊紐などとして使用され、そのルーツは昌幸・信繁父子が脇差の柄を巻くために開発したといわれている(『安斎随筆』)。2人は「真田紐」の製造・販売で生活費を稼いだといわれているが、その真偽は不明である。
なお、「真田虫(寄生虫)」や「麦稈真田(麦藁帽子)」は、「真田紐」に形状が似ていたので、「真田」の名を冠して名付けられたといわれている。
昌幸・信繁父子は「真田紐」の製造・販売で生活費を賄い、「打倒家康」の執念を持ち続けた。心惹かれる話ではあるが、今では否定的な見解が多数を占めている。