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世界のトレンドからいけば国立競技場は「改修」である

杉山茂樹スポーツライター

試合や競技が行なわれない日のスタジアムは、寂しく感じられる。普段はコンクリートの塊を連想させる異物のように見えるスタジアムが大半を占める中で、国立競技場をはじめとする神宮外苑のスポーツ施設は、そうした違和感を周辺に与えていない。むしろ、高い精神性を発している。明治神宮外苑という由緒正しい場所に、バランスよく、きわめて自然に収まっている。

国立競技場の魅力は「外苑の杜」との一体感にある。都心のド真ん中にありながら、上質な環境に包まれたスタジアム。スポーツの価値を高めてくれる場所だ。神宮外苑の公園としての空間的な価値も、スポーツと共存していることでより高まっている。スタジアムとその周辺がこれほど相乗効果を発揮し、見事に調和している例は珍しい。世界広しと言えどもザラにない大都会、東京の「良心」と言っても言いすぎではない。外国人を「お・も・て・な・し」するにはもってこいの環境にある。

国立競技場は「日本スポーツの聖地」と言われるが、それは、神宮外苑という厳(おごそ)かな場所に存在していることと、大きな関係がある。

その貴い魅力に気づいている日本人はどれほどいるだろうか。新国立競技場の問題を語る時、これは抑えておかなければならない点だ。

ザハ・ハディッドさんが設計した新国立競技場が、郊外に建設されるなら問題ない。斬新なデザインで知られるスタジアムと言えば、ヘルツォーク&ドゥムーロンが設計したミュンヘンのアリアンツアレーナ(2006年ドイツW杯開幕戦の舞台)を連想する。電飾装置が組み込まれたパネルがスタジアム全体を覆い、試合によって色を変えるインパクト溢れるスタジアムだが、これは完全な郊外型だ。スタジアムの周囲には何もない。

日本では、さいたまスタジアム、横浜国際競技場(日産スタジアム)が、郊外型の代表になるが、こうした場所に、ザハ・ハディッド案の新国立競技場が建設されるのなら何も問題ない。建物として価値あるものになるだろうが、神宮外苑にはそぐわない。まさに異物になる。スタジアムは一度建てられたら、最低でも半世紀は、その場にドカンと鎮座することになる。東京の良心がひとつ失われることになる。五輪を開催する代償として。「さよなら国立競技場」は、「さよなら神宮外苑」と同義になってしまうのだ。

建築家が設計する建造物は、コンペで決まるのが習わしだ。このザハ・ハディッド案も、その結果、最優秀作品賞に輝いたものである。だが、国立競技場にその方法は相応しいのだろうか。民間の建物はそれでいいかもしれないが、日本の象徴となるナショナルスタジアムにその方法は適切なのか。国民的な議論もないまま、一部の人たちだけで決めてしまっていいものなのか。

景観以外にも、問題はいくつもある。

新国立競技場は開閉式のドーム型スタジアムだ。現国立競技場との一番の違いになる。理由は、コンサートなどスポーツ以外のイベントを数多く行ないたいからだ。現在の国立競技場も嵐やももクロなどがコンサートを開き、盛況を博していたが、この手のものは天候などに影響されない屋内の方がやりやすい。都心のド真ん中にある神宮外苑の立地を考えれば、需要の伸びも期待できる。

開閉式ドームには、使用率を上げようという狙いがある。だが、それをすればするほど芝のピッチは傷む。養生には手が掛かる。肝心のスポーツに影響が出る恐れがある。芝が命のサッカーはとりわけだ。

それを避けようとすれば、札幌ドームのような、移動式ピッチにする必要がある。芝のピッチを使用しない時は、屋外に出し、芝に風と光を当てる方法にしなければならないが、国立競技場周辺にはそれだけのスペースはない。それは、無い物ねだりになる。

とすれば、スタジアム内で養生しなくてはならないのだが、ザハ・ハディッドさん設計の新国立競技場は、開閉式の天井部が開いた時の面積が著しく狭い。芝の養生に不可欠な太陽の光と風を満足に取り込むことができない。計画通り建設されれば、ピッチの芝は頻繁に張り替えなければならない状態に追い込まれる。

その1回の費用は億単位だ。ランニングコストは恐ろしく高く付く。採算を考えれば、その回数が抑えられる可能性がある。となれば、例えばサッカーは、現在の国立競技場より、悪い環境の中で試合をさせられることになるだろう。

先日、日本代表はブラジル代表とシンガポールのナショナルスタジアムで試合をしたが、新装なったこの開閉式ドームのピッチコンディションは最悪だった。サッカーの試合を行なうべき舞台ではなかった。しかし、新国立競技場の開閉時の天井は、これより遙かに狭い。少なくとも、芝が命のサッカーには、適さない可能性が高い。現在の質はとてもではないが望めそうもない。

サブトラックの問題も解決していない。これは陸上競技の問題だが、五輪や世界陸上を開催するスタジアムは、その近くにウォーミングアップ用のトラックを併設していなければならない。だが、国立競技場周辺にそれだけの土地はない。そして、ザハ・ハディッド案には、解決策が記されていない。どうするつもりなのか。

そもそも新国立競技場で、情報として明らかになっているのはスタジアムの形状だけだ。外観のイメージのみ。内部の具体的な構造などは、不思議なほど明らかにされていない。この状態で、本当に建設を始められるのか。準備万端整っているという感じではない。

建築家の世界でも、異論を唱える人が増えている。引き金になったのは、昨年、槇文彦氏が建築雑誌に寄稿したコラム。プリツカー賞の受賞者として知られる日本を代表する建築家が、新国立競技場について真っ向から否定したことで、多くの専門家が集まり、シンポジウムが開かれるようになっている。最近では、同じくプリツカー賞の受賞者で、新国立競技場のコンペにも参加した伊東豊雄が、改修案を提示し話題を集めている。

新築ではなく改修で、十分いける。前述のシンポジウムでは、改修こそがあるべき姿だという意見が多数を占めるようになりつつある。日本人の「もったいない」の気質にも、相応しい、と。

改修は、ともすると「せっかく五輪を開催するのだから、スタジアムは少し立派なものにしたい」と意気込む人たちの気勢を削ぐ、地味ものに聞こえる。だが、世界には、改修で鮮やかに蘇(よみがえ)った例がいくらでもある。

例えば、これから改修を始めようとしているサンティアゴ・ベルナベウ(マドリード)。ネットでも公開されているその完成予想図を見れば、改修のイメージは変わるはずだ。改修でここまで変わるかと言いたくなるほど、斬新なフォルムになっている。

1936年ベルリン五輪のメインスタジアムは、2006年ドイツW杯開催のために改修された。ヒットラー率いるナチスドイツが、世界に力を誇示するために開催したとされるベルリン五輪。負のイメージが残るそのメイン会場を、ドイツはあえて取り壊さず、改修することで2006年W杯決勝の舞台にした。二度とあってはならないものを綺麗サッパリ忘れるなという思いが、改修には込められていたという。

国立競技場は、1943年に学徒出陣式が行なわれた地だ。綺麗サッパリ忘れるべきではない場所という意味で、ベルリン五輪スタジアムと共通する。五輪が平和の祭典というならば、あるいは「もったいない」気質を日本人が世界にアピールしたいなら、改修で、と言いたくなる。アッと驚かせるような改修。その方が、いまの時代にも、世界に対しても胸の張れるものだと思う。

神宮外苑の景観にも、その方が相応しい。ベルリン五輪スタジアムは掘り下げ式だ。スタンドの外壁の高さは、地上10mぐらいしかない。これを神宮外苑にすっぽり置き換えれば、周囲とは完璧に調和する。

国立競技場は、まだ取り壊されていない。そして僕は、その近隣住民のひとりでもある。これまで国立競技場に何百回と足を運んだスポーツライターでもある。遅いといわれようが、一言いいたくなるのである。これでいいのか新国立競技場、と。

(集英社・Web Sportiva 10月26日掲載原稿)

スポーツライター

スポーツライター、スタジアム評論家。静岡県出身。大学卒業後、取材活動をスタート。得意分野はサッカーで、FIFAW杯取材は、プレスパス所有者として2022年カタール大会で11回連続となる。五輪も夏冬併せ9度取材。モットーは「サッカーらしさ」の追求。著書に「ドーハ以後」(文藝春秋)、「4−2−3−1」「バルサ対マンU」(光文社)、「3−4−3」(集英社)、日本サッカー偏差値52(じっぴコンパクト新書)、「『負け』に向き合う勇気」(星海社新書)、「監督図鑑」(廣済堂出版)など。最新刊は、SOCCER GAME EVIDENCE 「36.4%のゴールはサイドから生まれる」(実業之日本社)

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