【九州三国志】晴広の治世とその陰影!相良氏を導いた手腕と呪詛の行方
かつて、相良晴広という一人の当主が戦乱の中でその名を刻みました。
彼の治世は、たった十年と短いものでしたが、その影響力は世子時代からすでに芽吹いておりました。
彼は実父・頼興の庇護と、養父・義滋の指導を得て、相良氏三郡の安定化を成し遂げた功績を持ちます。
晴広が相良氏を治めた期間、その領内は比較的平穏であり、島津氏との関係も当初は友好的なものでした。
しかし、その治世は一筋縄ではいかなかったのです。
天文18年(1549年)、晴広は嫡子・万満丸を世子と定め、庶弟との家督争いを未然に防ぐ策を講じました。
一方で、隈本城をめぐる争乱や菊池義武の支援など、近隣勢力との複雑な外交が彼を待ち受けていたのです。
義武が名和氏との同盟を結ぶ際、仲介を果たしたのも晴広であり、その老練さは輝いていました。
しかし、戦乱の渦中に巻き込まれる義武の運命は、晴広の努力では覆しきれなかったのです。
また、彼の名を不朽のものとした「相良氏法度」も、この治世の中で布告されました。
式目二十一条は、相良氏歴代当主の努力を継承し、晴広による加筆を経て完成したものです。
この法度は領内の一向宗を厳しく禁じ、相良氏の統治に一貫性をもたらしました。
さらに、徳淵津を拠点とした貿易の発展も、彼の功績に数えられます。
しかし、晴広の人生には光と共に陰もありました。
正室名和氏とは破局に至り、その離縁劇は奇妙な呪詛を生むことになります。
名和氏へ戻された夫人が呪いを込めて水神に祈りを捧げたとされ、晴広は晩年に奇病に苦しむこととなりました。
この筋骨の激痛は、厄年と呪詛の祟りが原因とされ、真言僧の祈祷によってようやく平癒したと言います。
弘治元年(1555年)、晴広は43歳でその生涯を閉じました。
その死後も、彼の治世の足跡は相良氏の歴史に深く刻まれています。
晴広の功績は、彼が築いた安定と改革、そして戦乱の渦中での果断に満ちた行動にありますが、一方で、人間的な弱さと奇妙な因縁が彼の物語に独特の色彩を与えています。
果たして、呪詛の真偽は定かではありませんが、晴広の名が相良の歴史に輝き続けることは間違いありません。