【九州三国志】義を重んじ時代を紡いだ三人の男たち!赤池長任・岡本頼氏・深水長智、それぞれの戦いと詩情
時は戦国、九州の地に相良氏のもとで生きた三人の男たちがありました。
赤池長任は屈強なる戦士として名を馳せ、岡本頼氏は槍の名手として武名を轟かせ、深水長智は智謀と詩情を兼ね備えた名奉行として後世に名を残しました。
彼ら三人の軌跡は、それぞれが時代に対峙し、義を貫き、そして散った人間模様そのものでございます。
まず赤池長任。
大口城を守る将として、人吉衆1,000名を率い島津氏の猛攻を防ぎました。
永禄7年、わずか300余名の兵で島津軍に挑んだ長任は、壮絶な戦の末に大口城へ退却。傷を負いながらも、その忠誠心と闘志は相良家中に響き渡りました。
だがその名が史書から消えるとき、長任の人生は戦場において終焉を迎えたのでしょうか、それともどこか静寂の地で日々を送ったのでしょうか。
続くは岡本頼氏。
戦いの中で31もの傷を負いながらも、初陣以来19度の合戦に臨み、永禄11年には大口城の防衛で敵将を討ち取る大功を立てました。
その槍捌きはまさに芸術の域に達し、同時に和歌の道にも通じた頼氏は、戦国乱世の中で一陣の風のような存在でございました。
69歳にして剃髪した頼氏は、戦士であると同時に詩人でもあったのです。
最後に深水長智。
相良家の執政として、和歌や連歌に秀でた文化人でありながらも、主君を守り、家督問題や島津氏との交渉を見事に収めました。
「露零(おち)ちて その葉はかろき 小松原」と詠んで安産を祈るなど、その詩才は周囲の信望を集めたのです。
豊臣秀吉の九州征伐では、見事な交渉術で相良家の存続を勝ち取り、晩年には秀吉から水俣地方の代官に任ぜられるまでになりました。
歯の神として祀られるその墓は、今なお静かに彼の功績を語ります。
戦場に斃れた者、槍と詩に生きた者、智と詩情で家を支えた者。
それぞれの生き様は、九州の地に深く刻まれ、歴史の中で語り継がれております。
この三人の物語を胸に、私たちもまた己の道を見つめ直すべきではないでしょうか。