【九州三国志】水俣の月波が語る物語!犬童頼安・頼兄親子の軌跡
この世に、歴史を紡ぐ人々の影がどのように浮かび上がり、そして消えていくのか。
それは水俣の月波が寄せては返すように、儚くも確かな形を残すものでございます。
肥後国南部にその名を刻んだ犬童頼安とその子頼兄。
彼ら親子の数奇な運命は、時代のうねりに翻弄されつつも、深く鮮やかな爪痕を残しました。
頼安の物語は、大永元年(1521年)に始まります。
幼き頃、父・重安が謀反に与した一族と共に滅ぼされる運命をたどる中、わずか十歳の頼安は僧籍に入ることで命を繋ぎました。
伝心と名を改めた彼は、やがて復讐の炎を胸に秘めて立ち上がり、相良治頼に従って戦乱に身を投じますが、その道も平坦ではありませんでした。
水俣城の城主となった天正5年(1577年)、島津氏が攻め寄せた折の逸話は彼の知略を物語ります。
敵将・新納忠元が詠んだ「秋風に 水俣落つる木ノ葉哉」に応じ、頼安は「寄せては沈む 月の浦波」と返しながら矢を放ったといいます。
歌と矢、両方で戦うその姿は、戦国の荒波を乗り越えた知将の面影そのものでございました。
月日が経ち、頼安の生きた意志は息子・頼兄に受け継がれます。
頼兄は、延命院の稚児として穏やかな日々を送っておりましたが、父と共に籠城することで運命を大きく変えました。
やがて武将となった彼は、筆頭家老として相良家を支え、主君頼房の信頼を一身に集めました。
しかし、深水一族との対立や家中抗争の火種は、藩の未来に暗い影を落とすこととなります。
特に深水頼蔵との確執は、ただならぬものでした。
文禄2年(1593年)、頼蔵派が起こした湯前城籠城事件では、頼兄は厳格にこれを鎮圧し、さらに関ヶ原の戦いにおいては東軍への寝返りを進言するなど、己の才覚を存分に発揮しました。
しかし、その強い信念が時に衝突を生み、江戸幕府の耳にも届く事態へと発展します。
寛永17年(1640年)、頼兄は江戸に召され、その後の運命は流刑として決しました。
しかし、それは厳罰というよりも蟄居に近い穏やかな扱いであり、彼の長年の功績が考慮された結果とも言えるでしょう。
最期の地となった津軽にて、頼兄は静かに余生を送りました。
彼が歩んだ道のりは、波のように寄せては返し、時に激しく、時に穏やかに時代を映し出すものでした。
そしてその波紋は、子孫たちによって広がり、今もなお私たちの心に響き続けております。
歴史の影に潜む人間の息吹。犬童頼安・頼兄親子の軌跡は、それを浮かび上がらせる一つの物語として、私たちの記憶に刻まれるべきものなのでございます。