山村で起きた血で血を洗う騒動、椎葉山騒動
さて、椎葉山の古老たちは静かに語ります。
この山中の険しい谷間で、かつて血と汗が入り交じる騒乱が巻き起こったとのこと。
そう、その名も椎葉山騒動です。
山間の樹木は黙して語らぬが、風が囁き、川が語る――人の野心、権力の衝突、そして悲劇の果ての顛末を。
時は天正十五年、豊臣秀吉が勢い盛んな頃。
舞台は山深き椎葉の地。
そこには「十三人衆」と呼ばれる地元の有力者たちが存在しました。
彼らは各村落を束ね、秩序を守る役目を担っていたものの、どうやらその中に不穏な影が忍び寄っていたとのこと。
十三人のうち十人は穏健派で、椎葉の安寧を願っていました。
一方、残る三人はというと、これがまた只者ではありません。
その三人、名を那須弾正、那須左近太夫、那須将監といいます。
それぞれが山の名を冠しており、彼らは代々続く名家の息子たちでした。
だが、ただ名家の出というだけでなく、その覇気たるや山を裂き、川を止めるほどだったといいます。
そして、彼ら三人衆が突如として権力を掌握し始めたのには、時の権力者・豊臣秀吉が絡んでいました。
当時、鷹狩りは大名や武士の間で一大ブームとなっており、良質な鷹を得ることは何よりの誇りとされていました。
弾正はなんと、この地の鷹狩りを任された男・新八郎に取り入ることに成功し、秀吉から鷹ノ巣山の管理権を与えられたのです。
鷹ノ巣山は鷹の宝庫とされ、その価値たるや金銀にも勝るものでした。
これにより三人衆の勢力は山を越え、谷を支配するまでに拡大したのです。
しかし、ここから事態は一転します。
人は力を持つと、どうしても傲慢になるもの。
弾正は自身の力に驕り、十人衆をまるで家臣のように扱い始めました。
十人衆は眉をひそめました。
「何様のつもりだ」と、膝を突き合わせた夜の会合ではため息ばかりが漏れたといいます。
更に弾正は厳しい年貢を課し、民草の不満は募るばかりだったのです。
椎葉山は深い霧に包まれ、その中で静かに火が燻っていました。
そしてある事件が、ついにその火に油を注いだのです。
弾正の娘、名を露袈裟といいます。
その美しさは山中でも評判で、人吉藩家老・犬童家に嫁いだほどでした。
しかし、何の因果か、彼女はほどなくして実家に送り返されてしまったのです。
これを聞いた十人衆は立ち上がりました。「今こそ好機」とばかりに、弾正を襲撃することを決めたのです。
弾正は危機を察知しました。
彼は命からがら椎葉の山を越え、一目散に江戸へと向かったのです。
そして幕府に直訴しました。
幕府もまた、この騒乱に驚きました。
椎葉の名など聞いたこともなかったであろうが、ことの重大さを知り、高橋元種に弾正の警護を命じたのです。
高橋は鉄砲衆三百名を率いて向山上に布陣し、弾正は命を取り留めました。
だが、物語はここで終わりません。
権力の炎は、一度燃え上がれば容易には鎮まらないもの。
幕府の保護が解かれるや否や、十人衆は再び弾正を襲撃しました。
山は火花を散らし、血の匂いが立ち込めたのです。
弾正は最後の力を振り絞り、息子の那須九太郎、甥の千治郎を抱えながら戦ったといいます。
その言葉が本当であったのか、彼らの名は現代にまで残り、椎葉山騒動として語り継がれています。
そして、弾正の最期は特筆すべき壮絶さでした。
甥の千治郎を両腕に抱き、壮絶に討ち取られたといいます。
しかし、これで幕を下ろすにはまだ早い。
今度は巻き添えを食らった那須主膳が動き出します。
彼は幕府へ訴え、ついに椎葉山全体に幕府の怒りが降り注いだのです。
その結末は、まさに一揆を超えた戦争の如き惨状であったとのこと。
椎葉山の木々は知っています。
谷川の水は、その時流れた血をいまだ記憶しているのだろうか。
人の野心、権力の奪い合い、そして悲劇――それらはこの地に深く刻まれ、朽ちることなく今も囁かれ続けているでしょう。
時折、風が吹く。夜の椎葉山にそっと耳を澄ませば、弾正たちの声が聞こえるかもしれません。
参考文献
福田アジオ(1988)『近世初期山村一揆論 北山・椎葉山・祖谷山』国立歴史民俗博物館研究報告18巻p. 35-54,