【九州三国志】武人と文人、その狭間で揺れた人生!丸目長恵の剣術と波乱万丈の道
天文九年(1540年)、肥後国八代にて誕生した丸目長恵は、まさに剣と文化の狭間を生きたお方でございます。
その初陣たるや十五歳、父上と共に薩摩兵と戦い武功を挙げ、晴れて「丸目」の名字を賜るまでの腕前を示されました。
この時点ですでにただ者ではございません。
その後、天草伊豆守のもとで兵法を修行し、さらに上洛して新陰流の祖、上泉信綱に師事されました。
剣術の研鑽を積む中で師の「門下四天王」として名を連ね、足利義輝や正親町天皇の御前で剣技を披露するという栄誉も得られたとか。
まさに天賦の才を持つ剣士でございます。
しかし、長恵の道は順風満帆とはいかず。
相良家に仕えるも策謀に翻弄され、敗戦の責を負って逼塞を余儀なくされました。
その後も剣術の道に励み、西国で新陰流を広める役割を任されたものの、師匠信綱の死に直面し大いなる落胆を味わいます。
しかし、彼の心は折れることなく「タイ捨流」を開き、その名を九州一円に広めることに成功しました。
晩年には剣術のみならず、書や和歌、笛といった多才ぶりを発揮し、文化人としての一面も覗かせた長恵。
寛永六年(1629年)、八十九歳の生涯を閉じるまでその情熱は尽きることがなかったようです。
その墓所は熊本県球磨郡にあり、彼の生涯を静かに見守っているとのことです。