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豊臣派だったのに、徳川家康に重用された3人の戦国大名

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:アフロ)

 7月に「もしも徳川家康が総理大臣になったら」という映画が公開され、徳川家康が主役とのことらしい。こちら。家康といえば、豊臣恩顧の大名を自陣に引き入れ、関ヶ原合戦に勝利したことで知られている。その中で、特に重要な3人を取り上げることにしよう。

◎浅野長政(1547~1611)

 長政は浅野長勝の婿養子となったが、その長勝の養女が豊臣秀吉の正室となる「ねね」だった。長政と秀吉は、舅を同じくする義理の相婿という関係にあった。

 そのような事情から長政は秀吉に取り立てられ、文禄2年(1593)には、秀吉から甲斐府中(山梨県甲府市)に21万5千石を与えられた。しかし、秀吉死後の慶長4年(1599)、長政は家康暗殺計画の嫌疑を掛けられ、武蔵府中(東京都府中市)に隠居を命じられた。

 翌年に関ヶ原合戦がはじまると、長政は家康が率いる東軍に与し、江戸城の留守居を担当した。家康は長政に処分を科したものの、裏では懐柔して自陣に引き入れたようである。その後、浅野家は繁栄を築き上げ、幕末維新期まで家が存続したのである。

◎黒田長政(1568~1623)

 長政は父の官兵衛とともに、秀吉に重用された。ところが、天正15年(1587)に秀吉が伴天連追放令を発布すると、キリスト教徒だった官兵衛は、宣教師の意向を受けて抗議活動を行った(『日本史』)。

 これにより、両者の関係は険悪になったという。しかも、長政は文禄・慶長の役に出陣した際、秀吉の腹心だった石田三成に讒言されたので、徐々に豊臣家から心が離れた。

 秀吉死後の慶長4年(1599)、長政はほかの武将とともに三成の非道を訴えた。以降、長政は家康与党の立場を明確にし、関ヶ原合戦が勃発すると、調略により西軍武将を次々と東軍に引き入れた。

 戦後、長政の功は家康に高く評価され、筑前に52万3千石を与えられた。長政が藩祖となった福岡藩は、幕末維新期まで続いたのである。

◎福島正則(1561~1624)

 正則は母が秀吉の母の妹だったこともあり、そうした関係から秀吉に従った。正則は秀吉に従って各地を転戦し、尾張清洲(愛知県清須市)に24万石を与えられた。

 しかし、正則も黒田長政と同じく、三成の非道を許すことができず、秀吉の死後は家康派となった。小山評定の逸話(真っ先に三成を討つと述べたこと)は史実とは認めがたいが、有名な話である。関ヶ原合戦では先鋒を務め、東軍の勝利に大いに貢献した。

 戦後、正則は安芸など49万8千石を与えられた。ところが、元和5年(1619)、正則は幕府から無断で居城の広島城を改修したことを問題視され(「武家諸法度」違反)、改易された。晩年は信濃川中島(長野市)に流され、失意のうちに亡くなったのである。

◎まとめ

 豊臣恩顧といわれる大名は、たしかに秀吉に恩義を感じていたが、現実の政治情勢に応じて態度を変えた。家康が台頭する時代において、衰退気味の豊臣家に味方する理由はなかった。当時の大名は打算的で、損得勘定が判断の基準だったので、あまり豊臣恩顧を強調する必要はないだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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