真珠湾攻撃が行われた昭和16年12月8日からの気象報道管制、全ての気象情報が禁止ではなかった
太平洋戦争の始まり
昭和16年(1941年)7月末、アメリカとイギリスは対日資産の凍結を行い、石油の全面禁輸などを実施しています。
このため、自存を脅かされた日本は、9月6日の御前会議(天皇臨席の下に行われる重要国政の会議)で、戦争を辞せざる決意のもとに10月下旬までに戦争準備をするとしていますが、和平の可能性を探っています。
戦争を決意したのは11月5日の御前会議とされていますが、対米交渉の期限を12月1日0時まで延長し、このときも和平に望みを残しています。
しかし、11月26日にアメリカが提示した「ハルノート」は、従来の交渉を一説ご破算とし、満州事変以前の状態に戻れとする最後通牒というべきものでした。
このため、12月1日の御前会議においてアメリカ・イギリス等との開戦聖断があり、開戦が決まっています。
海軍がハワイ真珠湾のアメリカ艦隊を攻撃し、同時に陸軍がマレー半島を植民地支配していたイギリス軍に攻撃する計画でしたが、どちらも作戦遂行上、気象が重要な決定要素でした。
ともに、作戦遂行が可能な日として決まったのが12月8日で、戦闘部隊への連絡は12月2日に「ヒノデはヤマガタ」と打電されました。
「ヒノデ」は開戦日、「ヤマガタ」は数字の8を示す暗号です。
陸軍気象史(陸軍気象戦友会協議会・陸軍気象史刊行会が昭和61年(1986年)に刊行した「陸軍気象史(編者:中川勇)」によると、開戦日をきめた理由は次のようになります(筆者要約)。
・ガソリンなどの物的国力が枯渇しつつあり、許される限度は昭和17年(1942年)3月。
・彼我の戦力比の推移から、物的国力枯渇後は成功の目途を失う。
・アメリカやイギリスの戦争準備の速度からして開戦は早いほど有利。
・ソビエト連邦(現在のロシア)の動きを封じる上からいっても、冬の間に南方を攻略するのが望ましい。
・真珠湾攻撃をするさいの海洋の状況は、1月以降著しく不利になる。
・マレー半島近海の風と波の状態は、本格的な北東季節風の季節に入る1~2月はマレー半島上陸作戦に不利である。
・開戦の第一日は下限の月を利用するのが有利。
・奇襲のため日曜日を選ぶを可とする。
真珠湾攻撃
日米交渉が決裂し、開戦やむなしとなったとき、開戦日はハワイとマレー半島の天気予報をもとに、優位にたてる日として、12月8日が選ばれましたが、開戦日は予報通りの天気でした。
昭和16年(1941年)11月26日に千島列島の択捉島・単冠湾を出発した空母「赤城」を旗艦とし、「加賀」、「飛龍」、「蒼龍」、「翔鶴」、「瑞鶴」という計6隻の空母から編成されている第1航空艦隊(指令官:南雲忠一中将)は、北緯43度という「吠える海」を東進し、12月1日に日付変更線を越えています。
この時に、開戦日が12月8日(ハワイ時間では6日の日曜日)に決まったと伝えられ、そのまま「吠える海」を東進して、アメリカに気づかれることなく、ハワイの北の海域まで到達していますが、開戦が回避された場合は日付け変更線付近から戻る計画でした。
北緯40度以北の北太平洋の12月は、強い西風が吹く「吠える海」です。暴風が常に吹き荒れて波が高く、貨客船などの一般船舶が全く通らないことから、千島列島からハワイの北方海上まで、アメリカ側に艦隊が発見される可能性はほとんどなく、かつ、艦隊が無事に航行できるギリギリの荒れかたの海です。
真珠湾攻撃の立案は、神戸にあった海洋気象台(現在の神戸地方気象台)が、大正12年(1923年)1月1日から作成している毎日の北太平洋天気図からの知見をもとに作られました。
北太平洋天気図は、世界初の広域天気図でしたが、現在のように、船舶から無線で即時的に気象情報を集めることはできず、船舶が日本の港についてから海上気象報告を受け取って作成です。
このため、作成に半年以上かかっていましたが、アメリカを凌ぐ太平洋に関する気象・海象知識が使われての作戦でした。
空母「赤城」の海と空の観測記録を見ると、北緯43度線に沿って日付変更線を超えて東へ進み、5日からは図1のような高層気象観測をしながらハワイ諸島に向かっています。
図1の時刻は日本時間ですが、19時30分を引くとハワイ時間になります。
空母「赤城」の観測結果によると、北緯30度以北では、2、000メートル付近まで西よりの風が吹いていますが、北緯25度付近の攻撃隊を発進させた海域では、発進の半日前、直前、直後の3回の観測とも、2、000メートルまで、毎秒10メートル以上の東風が吹いています。
真珠湾攻撃時の空母「赤城」では、通常使う風船よりやや大きめの85.5グラムの風船を用い、通常の上昇速度よりやや早い1分間に250メートルという上昇速度になるように水素をつめています。早く観測を終えるための工夫と思います。
そして、この方法で観測ができるのは気球が見えなくなるまで(雲に入るまで)です。
12月7日23時05分の空母「赤城」の高層気象観測では、高さが2キロメートルまで観測したあとに雲の中に入り、観測は終わっています(図2)。
気球に発信機をつけ、観測データを無線で得るという、現在使われているラジオゾンデという新しい技術は既に完成していました。
この新しい方法なら、雲があっても高いところまで観測が可能ですが、アメリカに日本の連合艦隊の所在を知られてしまう可能性があり、あえて新しい技術は使わなかったと思います。
筆者は、平成11年(1999年)にNHK番組「戦争と気象・真珠湾」に取材協力をしたことがありましたが、このとき、NHKでは真珠湾攻撃に参加した空母「赤城」の乗組員をさがしだしています。
真珠湾攻撃の58年後ですから、80歳以上でしょうか、その人が次の証言をしています。
「風船をあげているので、不思議に思って何をしているのかと聞いたら、上空の風を測っていると言っていた。」
よほど印象に残ったできごとだったのではないかと思います。
こうして太平洋戦争が始まりました(タイトル画像)。
気象報道管制
真珠湾攻撃が行われた昭和16年12月8日の午前8時、中央気象台の藤原咲平台長は、陸軍大臣と海軍大臣から口頭をもって、気象報道管制実施を命令されています(文書では8日の午後6時、表1)。
こうして、気象情報のやりとり(気象無線通報)は暗号化され、新聞やラジオ等による国民への天気予報などの発表が中止となっています。
太平洋戦争を振り返る時、「太平洋戦争中の気象報道管制で住民に気象情報が全く伝わらないため被害が拡大した」といわれますので、多くの人がそう思っています。
しかし、例外として、防災上の見地から気象報道管制中でも、台風接近等による暴風警報の発表は、特令によって実施されることになっており、全てが禁止されたわけではありません(表2)。
正確に言えば、気象情報が全て発表中止ではなく、防災上の見地から、一部の気象情報は発表されていました。
しかし、一部の気象情報の発表であったために、効果はあまりなく、太平洋戦争を生き残った人々は、戦争中は全く気象情報が提供されなかったと思い込んでいます。
また、元資料を探さないで孫引きしている記事があふれています。
しかし、ラジオや新聞などで一部の気象情報が発表されています。
ラジオはともかく、新聞記事については、図書館などで当時の新聞記事を検索すると、気象情報が発表されていたことが簡単にわかります。
周防灘台風
太平洋戦争中に一番大きな被害が発生した台風は、昭和17年(1942年)8月27日に長崎県に上陸した台風です。
山口県を中心に大きな高潮が発生し、1158名が亡くなっています(図3)。
図3の丸数字は、時刻ですが、27日の21時ころに山口県に一番接近し、163センチメートルの高潮が満潮時刻におきています。
このため、この台風を周防灘台風と呼ぶことがあります。
周防灘沿岸は干拓地が多く、海岸低地に工業都市が発達していたこと、これまで災害に見舞われた経験が少なく防災設備が不備だったこと、気象報道管制下であったために、台風についての情報が住民にほとんど伝わらなかったが高潮被害を拡大させた原因として指摘されています。
このころの戦局というと、6月5日のミッドウェー海戦の敗北に続いて、8月7日にアメリカ軍のガダルカナル島上陸がありました。
太平洋戦争の開戦以来の日本軍の破竹の快進撃は止まり、米軍の本格的攻撃が始まりつつありました。
気象報道管制が行われていましたが、NHKラジオでは、8月26日22時15分のニュースに引き続き、次のような放送をしています。
8月26日午後中央気象台発表。今夜より明日にかけ九州南部及西部並に其近海一帯は暴風雨となる厳重警戒を要す。
また、8月27日5時30分及び7時のニュースに引き続き、次のような放送をしています。
8月27日午前5時発表暴風警報。本日中九州、四国西部、中国西部及其近海一帯は暴風雨となる厳重警戒を要す。特に九州南部は昼前頃より厳重に警戒を要す。
さらに、8月27日12時のニュースの前には、高潮に言及するなど、具体的ではありませんが、適宜放送をしていました。
中央気象台27日午前11時発表暴風警報。本日中九州、四国西部及び其近海暴風雨となる厳重警戒を要す。特に九州南部は正午頃より厳重に警戒を要す。今夜九州西岸方面には高潮の虞あり充分の警戒を要す。
また、翌日、8月28日読売新聞朝刊には、次のような記事があります。
前述した特例による暴風警報の発表が正式に決まったのは、昭和17年8月27日です。
つまり、周防灘台風によって西日本で大きな被害が出ている最中でした。
特例暴風警報の実施は、9月1日からでしたが、これを先どる形で、ラジオ放送が行われ、新聞でも報道されたのですが、天気予報が全くない中での短い情報です。
国民は、この突然発表された情報の意味がわからず、どう行動すれば良いのかも分からなかったというのが実情ではないかと思います。
太平洋戦争中は気象報道管制によって、気象情報が国民に全く伝えられなかったというのは誤解ですが、制約が多い中での中途半端な伝達であったため効果がほとんどなく、全く伝えられなかったと同様の状況でした。
昭和19年(1944年)9月の台風
周防灘台風の被害があったせいか、周防灘台風の約1か月後に近畿から中部地方を台風が襲ったときの台風に関する情報は少し具体的になっています。
ただ、昭和18年(1943年)以降は、防災情報どころではないほど戦争が激化し、特令暴風警報も発表されていなかったようです。
戦争と気象報道管制
天気予報などの気象情報は、戦争遂行のためには必要不可欠な情報です。
このため、戦争になると、少しでも自国を有利にするため、自国の気象情報を隠し、相手国の気象情報の入手をこころみます。
これは、昔の話ではなく、今でも状況は同じです。世界各地の気象情報が自由に入手できるというのは、平和の証なのです。
特例暴風警報は、戦争遂行に必要な情報でもある天気予報を国民に知らせないが、大災害をもたらす台風などの時には、「原因を言わず、危ないということだけを国民に知れせる」というものですが、次のような了解事項がついていました。
特例暴風警報の了解事項
1 発表する内容は警戒の区域、警戒の時期及警戒の程度に限るものとし、台風等の位置、示度、進行方向及び速度等は表さざるものとす。例へば次の如し。「 地方 日 時 頃より暴風雨になる、警戒を要す」
2 暴風雨の通過後と雖も観測せる結果は発表せざるものとす。
台風情報は進路や強度なので誤差を伴いますが、具体的な状況が分かっていれば、「台風の進行速度が予想より遅くなっているのでは」とか、「台風が予想より発達しているのでは」など、台風情報の誤差を補うこともできます。第一、避難しようというはっきりした動機付けになります。
周防灘台風の予報精度は、かなり良いものでした。そして、早い段階で中央気象台から各地の測候所に伝達され、役所などの限られたところのみに伝達されていました(表3)。
しかし、国民に伝えられたのはその一部でした。そして、一部であったがために住民の行動には結びつきませんでした。
災害時に特別なことするという計画は、往々にしてうまく機能しません。
災害時にうまく機能するのは、普段行っていることを増強して行うという計画です。
日頃から目にしている天気予報で、台風の発生と移動を早い段階から知り、台風が接近してきたら台風情報に注意するという下地があって、各種の警報で行動を起こして災害を防ぐ(特に人的被害を防ぐ)ことができます。
その意味では、日々の天気予報も防災情報の一つです。
図1、図2の出典:饒村曜(平成9年(1997年))、空母「赤城」の高層気象観測、雑誌「気象」、日本気象協会。
図3、表1、表2の出典:饒村曜(1986)、台風物語、日本気象協会。
表3の出典:「中央気象台(1944)、秘密気象報告第6巻」より筆者抜粋。