週明けに寒気南下 予測のための高層気象観測に貢献した直木賞作家・新田次郎忌
昭和55年(1980年)2月15日、直木賞作家の新田次郎が満67歳の生涯を閉じています。
「富士山頂」や「八甲田山死の彷徨」などの作品で、作家としての評価が高いのですが、現在の精度が高い天気予報に多大な貢献をしたことは、あまり知られていません。
週明けの寒気南下
日本列島は、南海上から暖かい空気が流入して4月のような気温となっています。
晴れて日照がある所だけでなく、低気圧や前線によって雨が降っている所でも気温が高く、春雨の様相です。
しかし、中国大陸の上空には強い寒気があり、その寒気が週明けに日本列島付近に南下してくる予報です(図1)。
上空約5500メートルの気温で、氷点下36度というのが強い寒気の目安ですが、この氷点下36度以下という寒気が日本海西部から東北地方を通過する予報です。
この寒気流入で日本付近は西高東低の気圧配置となって気温が下がり、平年並みの冬の気温となる見込みです。
今冬の九州の気象官署では、佐賀以外で初雪が観測されていません。
その佐賀でも、2月5日に40分間「霙(みぞれ)」が観測されたことによる初雪です。
週明けの寒気南下で、遅ればせながらの九州各地で初雪が観測されるかもしれません(図2)。
これらの予報の元となっているのは、各国が共同して行っているラジオゾンデ観測です。
図3は専門家が使う上空約5500メートルの観測データが記入されている天気図ですが、中国、北朝鮮、韓国、日本、ロシアなどの観測データが記入されています。
図3によれば、2月14日9時現在、上空約5500メートルで氷点下36度以下という寒気が中国の華北にあって、南下の気配を示しています。
ラジオゾンデ観測と新田次郎
天気予報のためには高層の大気の状態を観測する必要があり、大正時代から風船に水素を詰めて上空へあげ、その動きを地上から望遠鏡で追跡する方法が採用されていました。
これにより、日本上空の強い風、ジェット気流が発見されたのですが、この方法では風向風速しかわかりませんでした。
太平洋戦争が始まる少し前頃から、水素を詰めたゴム気球に気温や湿度などを観測する機器と無線通信機を載せ、地上に観測結果を送信する「ラジオゾンデ観測」という方法が考えられ、各国がその開発にしのぎをけずります(図4)。
中央気象台(現在の気象庁)での開発は、神田電機学校(現:東京電機大学)に学びながら、叔父の藤原作平が中央気象台長をしていた中央気象台に入った藤原寛人(ひろと)です。
藤原寛人は富士山勤務につき、その後、両角ていと結婚し、昭和18年(1943年)には満州国の中央観象台に、高層気象課長として転職、そこで次男・正彦が誕生します。
しかし、昭和20年(1945年)8月9日のソ連参戦によりソ連軍の捕虜となり、一年間抑留生活を送ります。
妻の藤原ていは、6才の長男、3才の次男、生後1ヶ月の長女の3人の愛児をつれて命からがら日本に帰国し、その時の体験をもとに「流れる星は生きている」というエッセイを書き、これがベストセラーになっています。
これに刺激され、藤原寛人は、新田次郎のペンネームで「強力伝」を書き、以後、気象庁勤務のかたわら、作家活動をはじめます。
長野県上諏訪町(現:諏訪市)角間新田(かくましんでん)で、次男として生まれたことからのペンネームです。
そして、富士山頂の気象観測所に物資を運ぶ人たちを描いた「強力伝」は、昭和31年に直木賞を受賞しています。
台風等の災害から日本を守るために富士山頂に気象レーダーを作る計画は、藤原寛人が責任者となって実現します。
その経緯は、新田次郎として書いた「富士山頂」、それを映画化した「富士山頂(石原裕次郎主演、藤原寛人役は芦田伸介)」で多くの人が知ることになりました。
昭和41年(1966年)に依願退職後は、小説家として「八甲田山死の彷徨」「武田信玄」などの気象や地形などに関するリアルな筆致で、ベストセラーを数多く書いています。
そして、数学者となった息子の藤原正彦も、平成17年(2005年)に「国家の品格」というベストセラーを書いていますので、親子3人がベストセラー作家です。
デビュー作「ラジオゾンデ」
新田次郎として「強力伝」を発表する前に、藤原寛人は地人書館から「ラジオゾンデ」という一般向けの本を書いていますので、実質的なデビュー作は「ラジオゾンデ」です。
初版は昭和17年(1942年)9月20日、太平洋戦争が始まっていました。
筆者が入手したのは昭和18年(1943年)8月10日発行の第3版ですが、そこには2000部印刷の記述があります。
物資不足の時代、紙の割り当てがあっての発行ですが、一般向けの本としてはかなり売れた本と思われます。
ちなみに、この本の値段は、定価2円80銭に特別行為税14銭を加えた2円94銭でした。
ここでいう特別行為税は、戦争遂行のために昭和18年(1943年)1月に行われた大増税の一環として新設された税金です。
藤原寛人の「ラジオゾンデ」は、非常にわかりやすい解説に加え、ドイツ、イタリア、フィンランド、アメリカ、フランス、イギリス、オランダ、ソビエト連邦(現在のロシア)における気象台や陸軍、海軍、大学のラジオゾンデについて、詳細な図入りで解説しています(図5)。
また、アメリカでは昭和15年(1940年)頃のラジオゾンデ観測所は約45か所あり、年間1万5000個のラジオゾンデが飛揚しているという記述もあります(図6)。
平均すると、各観測所でほぼ毎日1回の飛揚です。
ただ、外国の事情が詳しい割には、日本の最新事情については書かれていません。
この理由は、本の結語にある通り、太平洋戦争中であったからです。
太平洋戦争中、ジェット気流を利用してアメリカ本土を爆撃しようと考えていた日本軍に対し、アメリカ軍は日本本土の爆撃を行っていた時に初めてジェット気流の存在を知ったという事実からもわかる通り、日本の高層気象観測は世界のトップレベルでした。
藤原寛人が「優るとも劣るやうな事はないと断言出来る」というのは、誇張でもなく、平和な時代であれば、詳しく書きたかった誇れる技術ではなかったのかと思います。
今もラジオゾンデ観測
気象衛星観測やレーダー観測など、電波等を使って遠くから観測する技術が進んでも、その観測値をより正確に求めるためには、直接その場所で行った観測値をもとに補正する作業が欠かせません。
しかし、観測機器を上空にもってゆき、そこで直接観測するための方法として、ラジオゾンデ以上に、安価で確実な方法はありません。
もちろん、観測データの送受信機の進歩や、GPS機能の付加などで観測精度の向上があり、少ない人員で観測できるようになるなどの技術革新が行われています。
上空ほど気圧が低くなるので、気球は上空にゆくほど膨らんで大きくなり、破裂して役目を終えますが、観測機器は、クッションで覆われ、気球破裂後にパラシュートで落下するように設計され、安全への配慮がなされています。
また、素材もできるだけ自然に存在するものを使用し、環境にも配慮されています。
多少の変化はありますが、藤原寛人(新田次郎)が貢献したラジオゾンデ観測は、80年以上の長きにわたって行われています。
図1、図2の出典:ウェザーマップ提供。
図3の出典:気象庁資料に著者加筆。
図4の出典:饒村曜(平成24年(2012年))、大気現象と災害、近代消防社。
図5、図6の出典:藤原寛人(昭和18年(1943年))、ラジオゾンデ、地人書館。